『おどるポンポコリン』で貴重な体験をした奥山さん 画像を見る

住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代、大好きだった曲の話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。

 

「小さな子どもが今でも『おどるポンポコリン』(’90年)を歌っているのを耳にすると“楽しさが詰まっているから、30年以上も継承されているんだな”って驚きます。じつは、ウチの子どもたちが幼いころに『この曲のおかげで、今のママがいるんだよ』って言っていたくらい、私の人生を変えてくれた曲でもあるんです」

 

こう語るのは、女優でタレントの奥山佳恵(48)。’92年に主演で映画デビューを果たす直前まで、芸能界に入ることなど考えたこともなく、ごく普通の少女時代を過ごしていたという。

 

「その時どきに人気だったジャニーズタレントが大好きな、女のコの王道をいくようなタイプでした。『必殺仕事人V』(’85年・テレビ朝日系)の京本政樹さんに魅了されたのをきっかけに、美しいもの、キレイなものが大好きになって、『光GENJI』の大沢樹生さんの大ファンに。『パラダイス銀河』(’88年)は細長いケースに入ったシングルCDを買いましたし、ジャニーズの公式ショップで買った等身大のポスターを天井に貼って、『おはよう』や『おやすみ』のときも、大沢さんと過ごしていました」

 

進学した高校は自由な校風だった。髪色を変えたりパーマをかけたりしても、教師は注意するどころか「似合っているね」と褒めてくれる環境。そんな個性を尊重してくれる学校で目覚めたのが、彼女の持つエンタテインメント性だ。

 

「みんなを笑わせたり、驚かせるのが大好きでした。ランドセルで通学してみたり、お弁当の代わりにお豆腐と卓上しょうゆを持っていって食べたり。教室が2階にあったのですが、普通に入口から入ったらつまらないと思って、鶏小屋の金網をガシガシとよじのぼって、窓から登校したこともありました」

 

放課後は、’90年前後に急増したカラオケボックスにクラスメートたちと行き、Winkや工藤静香の曲を熱唱。

 

「1曲歌うごとに100円もかかるレーザーディスクカラオケの時代だったので、渾身の1曲を選んで歌っていました」

 

渋谷や下北沢、自由が丘などに遊びに行く都会的な学生生活を満喫していたが、高校2年生のときに転機が訪れる。

 

「セールで水着を買おうと、渋谷に行ったときのこと。センター街の入口で、真ピンクのチラシが配られていたんです。いったんは受け取らずに通り過ぎたのですが“もしかしたらセールのチラシかも”と思って引き返すと、映画のオーディションでした。『受けてみませんか? 女のコを募集しているんです』と声をかけられチラシを手にすると、“グランプリはフロリダのディズニーランドにペアでご招待”とあって」

 

フロリダ旅行に目がくらんだうえ、生来のノリのよさもあり、応募することに躊躇はなかった。

 

その映画こそ、東芝EMI、TBS、松竹、そして後に所属することになる芸能プロダクション・アミューズの4社共同プロジェクト『喜多郎の十五少女漂流記』(’92年)だった。

 

「でも、当時はよくわかっていなかったし、そもそも受かるとは思っていませんでした。覚悟も知識もないから、一次審査にも寝癖がついたまま、Tシャツ、短パン姿で行ったんです。周囲の参加者は髪をキレイに整えて着飾った本気の女のコばかりで、私は完全に場違いでしたね(笑)」

 

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