北陽・虻川美穂子 卒業アルバムには「浜ちゃんのお嫁さんになりたい」
画像を見る ソフトボール部のエースとして活躍

 

■自信も夢も失いかけたときに勇気づけてくれた曲

 

学校ではクラスの“一軍男女グループ”を、“私たちのほうがセンスある”と遠巻きに見ている女子だけのグループに属していた。

 

「バンドブームだったので、大好きなレピッシュやユニコーンが話題の中心。音楽雑誌の『PATi・PATi』(ソニー・マガジンズ)を買って、グラビアページを切り抜いたりしていました」

 

レピッシュのコンサートに行くために、学校の公衆電話に十円玉を積み重ねてチケット予約しようとしたが、あまりに人気のために入手できなかった。

 

「『音が漏れてくるかもしれない』と、コンサート会場の大宮ソニックシティに行ったことも。建物内のトイレまで入りましたが、一切、聞こえませんでした(笑)」

 

その時期、武田鉄矢ファンの虻川さんの母親が楽しみにしていた『101回目のプロポーズ』(’91年・フジテレビ系)に衝撃を受けた。

 

「バンド熱に浮かされていましたが、エンディングで流れる『SAY YES』(’91年)を聴いて、またチャゲアスに引き寄せられました。ピアノのイントロからすでに気持ちが盛り上がる、最初から最後までサビのような名曲」

 

中高6年間続けたソフトボール部では、ピッチャーとして活躍していたがーー。

 

「ピッチャーはチャゲアスでいえばASKAさん的なポジション。すごく目立つから私はワガママになりそうでした。でも、実際にピッチャーを支えているのは、CHAGEさん的なキャッチャー。“勘違いしないようにわきまえなければ”と思えたのも、ファンだったからこそ」

 

実業団からスカウトが来るほどの実力だったが、膝と腰を故障して断念。高校卒業後の進路に悩んだ時期もあった。

 

「ダウンタウンやウッチャンナンチャンが出演していた深夜のバラエティ番組『夢で逢えたら』(’88~’91年・フジテレビ系)の影響で、ユニットコントという言葉がはやりだしていて、私もあの場に加わりたいと本気で思っていました。卒業アルバムにも《浜ちゃんのお嫁さんになりたい》と書いていたくらい(笑)」

 

お笑いを目指したものの、そこにたどり着く方法が見つからず、卒業後は進路の決まっていない伊藤さんとともに劇団に。

 

「お笑いどころかバイトばかりの日々で、インスタントラーメンばかり食べていました。トイレのタオルも汚ないし、小道具を作るからいつもジャージ姿。たまにキラキラした短大に進学した同級生に会うと、自分が惨めになって……」

 

“このままでいいのか”と迷いを感じていたとき、ある劇場で「君もスターにならないか」という、現在所属する芸能事務所のチラシを目にした。

 

「チラシにあったお笑いライブの挑戦コーナーに出ようと、伊藤ちゃんに声をかけたんです。初ライブはすごくウケて、社長からも『お前ら、本気でコンビを組め』って言われました」

 

劇団を辞めてお笑いの道に入ったものの、お客さんが笑ってくれたのは最初だけ。数年間、何をやってもウケない日々が続き、1年間の休養を取ることに。

 

自信も夢も失いかけたときに勇気づけてくれたのは、何度も聴き返したチャゲアスの『PRIDE』(’89年)だった。

 

「売れなくて、うまくいかないときの気持ちにピッタリ。物憂げなイントロで始まるのに、最後は“やってやるぜ!”みたいな感じになれる曲なんです」

 

1年間の休養の後、ネタも衣装も一新した北陽は『爆笑オンエアバトル』(’99年~’10年・NHK)などでテレビ出演をかなえ、お笑い芸人としての足場を固めた。

 

「’90年代の苦労はすべて自分の糧。そんな時期に親しんだチャゲアスの曲は、今でもよく聴きます。家事がめんどくさいときは、気持ちが盛り上がる『モーニングムーン』がおすすめですよ!」

 

母となった現在も、チャゲアスの曲が寄り添っている。

 

【PROFILE】

虻川美穂子

’74年、東京都生まれ。中学から埼玉で育つ。高校の同級生・伊藤さおりとお笑いコンビ「北陽」を結成。’01年『はねるのトびら』のレギュラーに抜擢され一躍有名に。’15年に長男を出産、ママタレントとしても活躍。フジテレビ系『ノンストップ!』に水曜レギュラーとして出演中

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