86歳現役のイラストレーター・田村セツコさんが語る「母と妹のW老老介護」
画像を見る ご近所付き合いも大切にしてきた田村さんは行きつけの喫茶店で絵を描くことも(撮影場所:原宿シーモアグラス/撮影:高野広美)

 

■7歳で終戦を迎えて。女の子はお姫様の絵を描くくらいしか娯楽はなかった

 

1938年(昭和13年)2月4日、東京・目黒生まれ。物心ついたときは、戦争の真っただ中だった。

 

小2で栃木に疎開。洋服も、すべて器用な母親の手作りだった。

 

「ミシンで着物をリボン付きの洋服に仕立て直してくれたり、古いセーターの毛糸をほぐして、しゃれた柄に編み直したり。今のカワイイを生み出す私のルーツ? たしかに、そうかもしれません」

 

7歳で終戦を迎え、東京に戻る。絵日記を描き始めたのは、小4のときだった。

 

「女の子は誰でも、紙やノートの切れ端に、お姫様の絵を描くくらいしか娯楽がなかったの。

 

私は小学校だけで4回も転校するなかで、友達がいるのかどうかもわからなくなって、秘密のノートに自分の気持ちを書き込んだり、絵を描いたり。それ以来、小さな鉛筆とメモ帳を持ち歩く習慣ができて、いまだに続いてます」

 

都立八潮高校在学中に、童画家の松本かつぢ氏に弟子入りする。

 

「当時の少女雑誌には画家の先生たちの住所一覧が載っていて、ファンレターを送ったのがきっかけ。それから、月1で先生のお宅に通うようになりました」

 

松本氏の指導を受けながら、高校卒業後は銀行に就職。

 

「銀行勤めというのは、やっぱり長女として家計を助けたいという思いがありました。一方、かつぢ先生のところへ通い始めて1年ほどしたころ、先生から編集者を紹介されてデビューします。

 

とはいっても、銀行員との二足のわらじですから、お昼休みに神保町の出版社にイラストを届けたりで、交通費にもならないような原稿料でした」

 

銀行の秘書室の仕事は楽しかったが、絵を描きたいとの思いは募るばかり。そんなある日。

 

「ビルの屋上から、ふと見下ろすと、ホームレス風のおじさんがゴミ拾いをしているのが目に入って。その姿が、なんとも自由でいいなぁ、と思ったんです。それで、決心がつきました」

 

退職することにしたが、両親は当然というか、猛反対だった。

 

「安定していたし、そのまま銀行にいたら、きっと縁談にも困らなかったでしょうからね(笑)」

 

田村さんは、ふたりの前に正座して、3つの誓いを述べていた。

 

「後悔はしない、愚痴は言わない、経済的負担もかけませんから」 翌日から、出版社を営業で回る日々が始まった。

 

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