■7歳で終戦を迎えて。女の子はお姫様の絵を描くくらいしか娯楽はなかった
1938年(昭和13年)2月4日、東京・目黒生まれ。物心ついたときは、戦争の真っただ中だった。
小2で栃木に疎開。洋服も、すべて器用な母親の手作りだった。
「ミシンで着物をリボン付きの洋服に仕立て直してくれたり、古いセーターの毛糸をほぐして、しゃれた柄に編み直したり。今のカワイイを生み出す私のルーツ? たしかに、そうかもしれません」
7歳で終戦を迎え、東京に戻る。絵日記を描き始めたのは、小4のときだった。
「女の子は誰でも、紙やノートの切れ端に、お姫様の絵を描くくらいしか娯楽がなかったの。
私は小学校だけで4回も転校するなかで、友達がいるのかどうかもわからなくなって、秘密のノートに自分の気持ちを書き込んだり、絵を描いたり。それ以来、小さな鉛筆とメモ帳を持ち歩く習慣ができて、いまだに続いてます」
都立八潮高校在学中に、童画家の松本かつぢ氏に弟子入りする。
「当時の少女雑誌には画家の先生たちの住所一覧が載っていて、ファンレターを送ったのがきっかけ。それから、月1で先生のお宅に通うようになりました」
松本氏の指導を受けながら、高校卒業後は銀行に就職。
「銀行勤めというのは、やっぱり長女として家計を助けたいという思いがありました。一方、かつぢ先生のところへ通い始めて1年ほどしたころ、先生から編集者を紹介されてデビューします。
とはいっても、銀行員との二足のわらじですから、お昼休みに神保町の出版社にイラストを届けたりで、交通費にもならないような原稿料でした」
銀行の秘書室の仕事は楽しかったが、絵を描きたいとの思いは募るばかり。そんなある日。
「ビルの屋上から、ふと見下ろすと、ホームレス風のおじさんがゴミ拾いをしているのが目に入って。その姿が、なんとも自由でいいなぁ、と思ったんです。それで、決心がつきました」
退職することにしたが、両親は当然というか、猛反対だった。
「安定していたし、そのまま銀行にいたら、きっと縁談にも困らなかったでしょうからね(笑)」
田村さんは、ふたりの前に正座して、3つの誓いを述べていた。
「後悔はしない、愚痴は言わない、経済的負担もかけませんから」 翌日から、出版社を営業で回る日々が始まった。