「やばい、芸能人生終わった」MEGUMI 明石家さんまの「胸大きいな~」に「うるせ~な」と返し…【美容本がベストセラーになるまで】
画像を見る 「MEGUMI姉さん」と羨望のまなざしを向けるのは若い世代だけではない(撮影:加冶屋誠)

 

■「歌手になりたい」と18歳で上京。しかし書類審査で“不合格”の日々

 

「どんな子どもだったかといえば幼少のころからずっと『考える前に体が動く』子どもでした」MEGUMIは’81年9月25日、島根県松江市で生まれた。5歳で母とともに、岡山県倉敷市に引っ越している。

 

「女手ひとつで私を育ててくれた母は、大手運送会社の経理の仕事をしていたんです」瀬戸内の有数の工業都市である倉敷市は、白壁の街並みと、洋風建築を持つ美観地区でも知られる。「倉敷川では船頭さんが船をこぎ、商店街はアーティスティックな店も多かった。すこし離れれば田畑で“なんでもあり”な町でした」

 

ワーキングマザーの母の傍ら、「やりたいことをなんでもやってみる」好奇心旺盛な少女だった。「算盤や習字、バトントワリングとスケジュールをフルフルに詰め込んで、なんでも挑戦させてもらった。『あの塾がいいらしいよ』と、仕入れた情報を母の耳に入れて」

 

このように、いろいろとトライしながらも、できないことには、自分なりに折り合いをつけていた。そして高校1年時に「絶対になりたい!」ものを見つける。

 

「忌野清志郎さんや、ジミ・ヘンドリックスを聴き、特にR&Bのローリン・ヒルに影響を受けました。こんな田舎じゃなく、もっと楽しい場所、大きな世界があるはずだ、『歌手になりたい』と」

 

MEGUMIは留学を志願した。

 

「でも、何度言っても母はOKをくれませんでした。『女手ひとつ』という責任感と、生真面目な性格から、『大学を出て銀行員とか安定した職についてほしい』と、つねづね言っていた母でしたので」

 

ここでMEGUMIは動く。

 

「それまで遅刻ばかりだった高校に早起きして登校し、週3回だったバイトを週6回に増やし、とにかく3カ月間、フル稼働しました。態度で認めてもらおうと」母は根負けし「行っておいで」と30万円を手渡してくれたのだという。

 

「とにかく『考えるより動く』で、できないと思う暇があるなら、やってみようと」この性分は「もともと持っている性質で、私の中に内蔵されていた」というのが彼女の自己分析だ。

 

最初は高1で3カ月、高校時代に計4度、NYに渡っている。

 

「教会に通ってゴスペルを習い、充実していましたが、語学力不足や食事の違いからホームシックになったりと、ストレスや悩みもありました。『それでも、私がなりたいものは歌手なんだ』という結論にNYで達したんです」

 

なぜ歌手なのか? と問うても、「根拠のない自信があったとしか言いようがない」と彼女は答える。

 

18歳で、今度は上京。しかし、バイトしながらボーカルのオーディションを受けても、書類審査の段階で「不合格」の日々が続くことになる。

 

「安室ちゃんのように細くて踊れるコが求められていたのに、ぽっちゃり体形で食べまくっていた。そりゃ受からないですよね……」当時の音楽シーンは安室奈美恵やglobeなど“小室サウンド”全盛でポップがウケるなか、彼女の志向は骨太なソウルやR&B。

 

毎週毎週オーディションを受け、連戦連敗の結果も、悩みを相談できる相手もいなかった。悶々と「一人考える」月日にも、東京に踏みとどまらせたものは。

 

「このまま何者にもなれないのでは、と不安に押しつぶされそうな日々でした。なにもつかめないまま地元に帰るのは、カッコ悪すぎるという思いで、ギリギリ持ちこたえていた。でも、やみくもでしたよね」

 

そこに救いの手が伸べられた。バイト先のオーナーが、知り合いの芸能事務所・イエローキャブの野田義治社長(現・サンズエンタテインメント会長)に連絡を取ってくれたのだ。

 

「イエローキャブといえばグラビアで、歌手とは真逆のイメージでした。でももう19歳。デビューには遅いと思っていたので、チャンスがあるならグラビアでもいいと」赤坂の喫茶店での面談で、野田社長は「来週からサイパンに行ってもらうから」。即採用だった。

 

「一筋の光が差したようでした。なにも持っていない自分から、これで抜け出せると」

 

その初の写真集を「母は買ってくれていました」と振り返る。「男性向けの水着写真集ですから『怒るかなあ』とちょっと気掛かりでしたが、電話で母は『キレイに撮れてる。どんどんやりなさい!』と。世に出たことを喜んでくれました」

 

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