■母との死別でできた心の隙間に“ある女性”が……
「つかさんがご存命のうちは、もう結婚しないだろうと思っていました」
つか氏との離婚後、ボーイフレンドはできたことがあるが、結婚に至ることはなかった。
「子供ができたら再婚するかもしれないとも考えていたのですが、それもありませんでした。 離婚のとき、そしてボーイフレンドとの別れのたびに落ち込みましたが、母は常にそばにいて、私の悲しみを軽くしてくれました。25歳くらいからはいっしょに座禅道場にも通ったりして仲のよい母娘だったのです」
そんな母が56歳のときに、がんが見つかった。
「足のがんで、医師からは『すぐに切断してください』と言われるほど進行していて。ママっ子だったから“ママが死んだら私も死ぬ”というほど落ち込みました」
“人生で、あれほど悲しむことはないだろう”と振り返るほどつらかった母との死別によって、数年間、真実は立ち直れなかった。
「いつも寄り添ってくれたから、心の行き先がわからないという感覚。そんな状況だった40歳のとき、母と同年代の“ある女性・Aさん”に出会ったのです」
舞台に出演していると、たとえ捻挫をしても公演を休むわけにはいかない。
「Aさんは業界では有名な方で、医師でも治してくれないような痛みを治してくれたのです。私は神がかった技術を持つ彼女に、亡くした母の面影を見てしまい“この人といっしょにいたい”と感じるようになりました」
元来まっすぐな性格の真実は、Aさんに心酔し、依存度を高めていったという。
「私がテレビで着る洋服は、スタイリストではなく、全部Aさんが決めていました。だから40代のときの写真を見ると今より老けて見えますよね(笑)。
仕事が終われば、すぐに家に帰って、その日にあったことをAさんに報告しなければなりませんでした。打ち上げに出席することも禁止されていたから、現場で出会った人と親睦を深めることもできなくなってしまったのです」
携帯電話に登録されている男性の連絡先も削除させられた。
「Aさんからは『あなたの根底にある問題は、男性関係だ』と言われ、私は何の疑問も感じずに『はい、消します』と言いなりでした」
所属していた事務所もやめて、Aさんといっしょに個人事務所を立ち上げた。
「当時を知る友人からは『すごく明るかった真実ちゃんが、突然よそよそしくなった』と言われましたが、私自身にはその自覚すらありませんでした」
孤立すればするほど、頼りになるのはAさんだった。
「『あなたはダメだ』と何度も何度も言われると“ああ、私はダメな人間なんだ”って自信を失ってしまうのですね。姉や妹とも会わず、周りに頼れる人もおらず、彼女に依存するしかありませんでした」
40代の約10年、Aさんと過ごしてきたが、50歳に大きな転機を迎えた。
「ある大きな舞台をやり遂げた私に『しばらく部屋に籠もって今までのことを反省しなさい』とAさんは言いました。共演した役者さんは次の仕事に取り掛かっている。なんで私だけ部屋に籠もって反省しなきゃいけないんだろう。当時私は50歳を迎えたばかりでした。そのとき気がついたんです。
“私、もう50歳じゃん!”って。それなのに、私は彼女に依存するばかりで、気がつけば何も決められない人間になっていたのです。“このままではまずい”と急に目が覚めて。母方の叔母に相談し、彼女と離れることができたのです」
Aさんから離れることができ、しばらくしたころ、出演していた舞台の楽屋にAさんに心酔していた人たちがやってきたという。
「『先生はお元気ですか?』と尋ねると、『毎月、毎月、お金の取り立てがすごくて、通帳を見せて残高がないのを証明しなければならないほど。私も追い込まれて、先生と別れました』と聞いて“えー!”って思って。もしかしたら高い勉強代を払っていたのかもしれないですね。
後になって、Aさんと出会う前から私を知る友人には『真実ちゃん洗脳されてたんじゃない?』『この10年間別人だったよ』と言われて、“そうだったのかな”と思いました。
でもAさんといっしょにいた当時は、Aさんの家族とファミレスで食事をしたり、旅行をしたり、本当の家族ができたみたいで楽しかったのも事実なんです。とくにAさんのお孫さんとは仲がよくて、私がAさんに怒られても『真実ちゃんは悪くない』っていつもかばってくれていました。Aさんと過ごした10年間は、もう一度は繰り返せないですけど、後悔もしていません」
【後編】「自分自身が楽しみ、人にも喜んでもらう」熊谷真実 3度目の結婚と幸せをつかんだ“喜びを見つけ続ける”人生哲学へ続く
(取材・文:小野建史/撮影協力:(R)EANDY)