■テレビで見た鶴瓶に魅了され、追っかけに。次第に落語にハマり「これや!」と確信した
学童保育の指導員をしていた父と、会社員の母。二葉さんはそんな2人の長女として86年、大阪市東住吉区に生まれた。
「内気な子でした。それに何より、勉強ができない子で。ノートの取り方もようわからん、びっくりするぐらいできない子でした」
それは中学時代、音楽の筆記テストだった。
「『カッコの中に適当な名前を書きなさい』という質問で。作曲者の名前を書かなあかんのに、私は『これやったらいける!』と本気で自分の名前を。『適当な』やから、『テキトーでええんやな』と(苦笑)。あと英語の『M』と『N』の違いが長いこと、わからんかった。形も似てるし、音も似てるから」
娘のあまりのダメっぷりに「父はよう暴れてました」と笑う。
「『なんでこんなこともわからへんねん!』と、ひっくり返した昆虫みたいになって『わー!』って暴れはったのを、よう覚えてます(笑)。でも、そんなん言われても困んねんけど、こっちは別に悪気があってやってるわけじゃなし」
いっぽう母は「アホな娘を面白がり、見捨てずにいてくれた」という。
「家に図書室作るぐらい本が好きで、物知りで。懐ろも深いんです。『ええか、MはNより1本、多いんやで』言うて(笑)、私の横に座って、辛抱強く教えてくれた」
母は既成概念にとらわれることを嫌う人でもあった。
「幼いとき、3つ下の弟とけんかして。泣く弟に私『男のくせに泣くな!』と言ったんです。きっと、世間の人がそう言ってはるの、何かで聞いて覚えてたんでしょうね。でも、すぐ母に怒られた。『男でも女でも泣くやろ』って。そう言われて『そら、そうや』と。当たり前のこと注意されて、子供ながらに、めっちゃ恥ずかしかった」
さまざまな部分で男女の格差が依然、大きかった落語の世界。果敢に飛び込んだ二葉さんのなかにもきっと、母の教えが息づいていたのだ。
「落語家を志したのは大学生のときで」と切り出した二葉さん。「え、進学できたの?」と記者が問い返すと、いつもの甲高い声で大笑い。
「まず高校は偏差値37の女子校になんとか受かって。入ってみたらアホばっかり。先生が『このまま明日の試験に出すからな』って、前日に同じプリント、くれるような高校(笑)。でも、そこで点数とることや勉強することの喜びを知って。成績も少しずつ上がってクラスで2位に。それで指定校推薦で、無事大学にも入れたんです」
大学の3回生のころ。ふだんはあまり見ないテレビのなかに、人生の転機があったという。
「たまたま見た『きらきらアフロ』いう番組で。そこに出ていた人を『このおっちゃん、なんか素敵やな』って思ったんです。『格好いい、あわよくば付き合いたい』と」
若き乙女の心をつかんだ「おっちゃん」とは、笑福亭鶴瓶さん(70)。
「すぐ調べて、落語家してはるんやと知って。それまで落語の『ら』の字も知らんかったんですけど、落語会にも行き始めて」
追っかけファンになって、好きが高じて寄席でバイトもした。
「初めてお会いしたときは、相変わらず内気でしたから、小声で『好きです』言うんが精いっぱい。言われた師匠は、苦笑いしてはりました」
熱意は実り、やがて鶴瓶さんからごはんをご馳走になったり、落語会に無料で入れてもらえるようにも。こうして、通い詰めた寄席で、二葉さんはいつしか、落語そのものの魅力にハマっていった。
「見れば見るほど落語って面白いな、自分もやってみたいなと。それに漫才やコントと違って、古典なら、ネタを一から創作する頭脳がいらないのも魅力でした(苦笑)」
じつは二葉さん、幼いころからクラスの“いちびり(お調子者)”に憧れを抱いていた。
「いてるでしょ、先生に怒られてもアホなことして、いちびれる子。たいがい男子ですけど。『俺、砂場の砂、食えるしな〜』とか言うて。アホやなと思いつつ魅力的に見えた。私こそ“ほんまもん”やのに、内気が邪魔してアホをさらけ出されへんのが悔しかったのかも。憧れは大人になってもありました」
寄席に通ううち、ここなら思いっきりアホができる、そう思えた。
「堂々とアホをやって、皆が喜んで見てくれはる、『これや!』って」
もちろん、女性の自分にはハードルが高いこともわかっていた。
「長年、男の人が演るために研究されてきたものですから。女性が演じることでお客さんが違和感を覚えてしまったら、それは笑いにつながりにくいんやろなと。なんとなくわかってはいました」
でも、と二葉さんは続ける。
「この人、頭いいんやろな、と思う落語家さんが演じるアホにも、私は同じように違和感を覚えてた。なんか無理してはるな、と。でも、私はほんまもんやぞ、私なら純度の高いアホを、無理なく演れるはずや、そうも考えたんです(笑)」
