やなせたかしさん&暢さん 穴あき共同トイレにも大喜び!国民的漫画家を後押しした“はちきん妻”の素顔
画像を見る アトリエでのやなせさん(写真提供:やなせスタジオ)

 

■上京後に暮らし始めた6畳一間のボロアパートに大興奮

 

’46年、やなせさんは27歳のときに高知新聞社に就職。焼け残った古い建物の、部屋の一角をベニヤ板で囲った小さなスペースが配属された『月刊高知』編集部だった。

 

「向かいの席に座っていた女性が暢さんでした。’18年生まれで先生より1歳上ですが、先生は早生まれなので学年は同じでした」

 

暢さんの性格は、その当時から豪胆で活発だったという。

 

「仕事中に激しい雷雨になったとき、稲光に向かって『もっと鳴れ!』とうれしそうに叫ぶ姿が、先生の印象に残ったといいます。

 

雑誌広告の掲載料の集金も部員の仕事でしたが、暢さんが行くと、女だからとばかにされてなかなかお金を払ってくれない。そんなときはハンドバッグを投げつけて『払いなさい!』とたんかを切って、相手に払わせたそうです」

 

暢さんが、やなせさんを含めた編集部の男性3人にまじって、東京へ取材旅行したときのことだ。

 

取材を終えて高知に帰るとき、一行は東京の闇市で入手したおでんを楽しんだ。

 

「ところが男性3人は、ちくわや卵などのおでんダネにあたって食中毒になったのです。暢さんだけ無事だったのは、当時は入手困難だったタネを男性陣に食べさせたいと思い、自分は大根しか食べなかったからだったといいます」

 

一人無事だった暢さんが、献身的に看病にあたることに。

 

やなせさんは、暢さんのふだんの気の強さとのギャップに、いっそうひかれるようになり、ある取材の帰り道に思わずキスしてしまったという。そこから2人の交際が始まった。

 

『月刊高知』の編集部で働き始めて1年後の’47年、やなせさんは漫画家になる夢を捨てきれず、新聞社をやめて上京するかどうか、逡巡していた。

 

「その様子を見た暢さんは『先に東京に行って待ってるわ』と、さっさと転職先を決めて上京してしまいます。半年後に先生が彼女を追いかけることになるのですが、先生の人生の大きな決断は、こんなふうに暢さんがしていることが多いんです」

 

暢さんの下宿先に転がり込み、やなせさんは東京で貧乏暮らしを始めた。そんな2人の心の支えは高さ30センチほどの大きなジャム缶。

 

戦後、暢さんが配給を受けたもので、それさえあれば1週間は食いつなげると考えたのだ。

 

「“ジャム缶大明神”と名付け、いざというときのお守り代わりにしていたといいます」

 

貧窮のなかでも、光を見つけ、幸運に感じられる暢さんの楽天性にやなせさんは幾度も助けられたという。

 

やなせさんは三越の宣伝部に就職して’49年に結婚。暢さんの下宿先を出ようとアパートを探したときのことだった。

 

「ようやく6畳一間のアパートが見つかったものの、共同トイレの屋根は穴が開いて空が丸見えだったのです。それでも暢さんは『雨の日は傘をさせばいいし、晴れた日は星空がきれい。こんな暮らしがしてみたかったの』と面白がっていたそうです」

 

やなせさんは三越の宣伝部で現在でも使用される包装紙のデザインに関わるなど活躍。新聞や雑誌に掲載する漫画の原稿料は三越の給料の3倍を超えるようになり、34歳のときに独立を決意した。

 

「42坪の借地に、夫婦でためた資金で小さな家を建てたのもこのころ。安定した収入を捨てることに不安はあったはずですが、『もし仕事がなければ、私が食べさせてあげるわ』と、ここでも暢さんが背中を押します。先生の才能を誰よりも信じていたのでしょう」

 

2人の関係は、当時の夫婦としては珍しかったのではないかと語るのは、やなせスタジオ代表の越尾さんだ。

 

「奥さんがお仕事で、先生が家でお留守番のときもありました。一般的な大正生まれの男性なら自分で買い物をして食事の用意をすることなんて考えもしないはずです。

 

でも晩年の奥さんが、うれしそうにこう話していたんです。『主人が近くのお肉屋さんへトンカツを買いに行って、ごはんを用意して待ってくれていたことがあったの。お肉屋さんの店主も“ほかの男と違い、見どころがある。一流の人になる”と感心していたのよ』と」

 

やなせさんは暢さんのことを“オブちゃん”と呼んでいた。

 

やなせさんは自分の漫画だけではなく、イラストや大物漫画家の原稿が間に合わなかったときの穴埋め原稿など幅広く仕事を受け、やがて“困ったときのやなせさん”とまで言われるように。

 

しかしその器用さが災いして、ヒット作や漫画家として代表するキャラクターに恵まれないことで悩んでいた。

 

そんな時期、フレーベル館から絵本を依頼されて描き上げたのが絵本『あんぱんまん』(’73年)だった。

 

「’67年から’70年にかけて、ナイジェリアで内戦が続き、飢餓に苦しむ子供の映像がニュースで報道されたことも、『あんぱんまん』誕生に無関係ではなかったと思います」(梯さん)

 

飢えに苦しむ人がいれば、身を犠牲にしてでも食糧を分け与えることが、本当の正義だという信念があった。

 

「でも、当時のアンパンマンはマントがボロボロで、手足も長くてあまりかわいらしくもなく、かっこいいヒーローでもありませんでした。ましてや顔を人に食べさせることから、残酷、グロテスクと大人から非難されたのです」(梯さん)

 

ところが子供たちの受け止め方はまったく違った。

 

【後編】「妻がいないと生きていけない」やなせたかしさん『アンパンマン』大ヒットの陰にあった愛妻の余命3カ月がん宣告へ続く

 

(取材・文:小野建史)

参考文献:梯久美子『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(文藝春秋)

画像ページ >【写真あり】やなせさんの元秘書の越尾正子さん(他3枚)

【関連画像】

関連カテゴリー: