■最期の言葉は「オブちゃん、ありがとう、ありがとう」
「黙々と仕事をしていました。それを見るのもつらい部分があったのですが、変になぐさめることもできず、黙って見守るしかありませんでした」(越尾さん)
やなせさんは暢さんの死後、憔悴して一時的に体重が落ちたが、3カ月ほどすると、気持ちを整理し、精力的に仕事を始めた。
そんなある日、里中さんにやなせさんからこんな電話があった。
「アンパンマンがヒットして、お金が入ってきちゃうんだ。楽しく使っちゃおうと思って、高知にアンパンマンミュージアムを建てるんだけど、あんなところにわざわざ人が来てくれるのかわからない。事業に失敗して貧乏になったらごはんをおごってね」
やなせさんと暢さんは子供に恵まれなかったため、アンパンマンがわが子のような存在だった。
「その“アンパンマンの家”を、故郷に建てたいという思いだったのでしょう」(梯さん)
やなせさんの心配は杞憂に終わり、’96年にオープンした「やなせたかし記念館アンパンマンミュージアム」は、わずか49日で来場者10万人を突破した。
生涯を通じて、楽しいことを企画し、みんなを喜ばせ続けたやなせさん。東日本大震災が発生した後は92歳の高齢にもかかわらず、チャリティ活動に尽力していた。
ほどなくして膀胱がんを患ったやなせさんは、’13年に入ると入退院を繰り返すようになり、同年10月13日に永眠。94歳だった。
「最期の言葉は『神様仏様、ありがとう、ありがとう。お父さんお母さん、ありがとう、ありがとう。オブちゃん、千尋、ありがとう、ありがとう。みなさん、ありがとう、ありがとう』でした」(越尾さん)
今、やなせさんと暢さんはアンパンマンミュージアムから車で5分ほどの場所にある墓地で眠っている。
そこには、アンパンマンやばいきんまんの石碑も配されており、公園にもなっている敷地内には、朴の木が2本寄り添って立っている。
まるで公園で遊ぶ子供たちを優しく見守る、仲むつまじい夫婦のように――。
(取材・文:小野建史)
参考文献:梯久美子『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(文藝春秋)
画像ページ >【写真あり】やなせさんと親交があった里中満智子さん(他4枚)
