中山美穂さん「“息子に頑張っている背中を見せたい”と必死で仕事を」共演者&育ての親が今だから語る「根性のシャイニングスター」伝説
画像を見る 昨年4月、初代ディレクター・福住朗さんと、ライブ会場の楽屋で撮影した写真「まだそばにいる気がする」(福住さん)

 

■育ての親が振り返るミポリンの凄さ「お客さんの半分は女性だった」

 

’85年、アイドル界では中森明菜、小泉今日子、岡田有希子、菊池桃子などが覇権を争い、おニャン子クラブが旋風を巻き起こしていた。群雄割拠の時代に、中山美穂は勇敢に闘いを挑んでいった。6月、デパートの屋上でデビュー曲『C』の発表会をすると、竹中さんは驚愕の光景を目にした。

 

「どこに行っても、女性がお客さんの半分を占めたんです。アイドルの宣伝では男性誌での水着グラビアなどを考えるんですが、彼女の場合は女性をターゲットにした雑誌に売り込みました」

 

なぜ、同性から人気を得たのか。

 

「当時、自我を出す少女って、ほとんどいなかった。『女の子はこうしなければならない』と社会に抑圧されていた。『毎度~』の役柄は、その風潮に反発する同世代の女性に支持を受けた。時代の気運にうまく乗れたと思います」(福住さん)

 

覚悟を決めて嫌な仕事を乗り切ったため、幸運が舞い降りたのだ。突っ張りキャラでスタートした彼女は、’86年2月発売の『色・ホワイトブレンド』で可憐な姿を見せ、新たなイメージを創出した。杏里は「美穂さんの魅力は、多様性だと思います」と語る。

 

「物静かな一面、内に秘めた情熱的な一面、時折見せるおちゃめな一面。彼女の瞳の奥には、さまざまな感情が込められていました。歌声も、透明感のなかに力強さがあり、聴く人の心を引きつけました。アイドルという枠にとらわれず、常に新しい表現を追求する姿勢も素晴らしいと思いました」

 

息の長い歌手になってほしいと願う福住さんは、デビュー当時から美穂さんに作詞の課題を与えた。

 

「多忙なのに頑張って書いていました。彼女はドラマの撮影が終わって深夜にレコーディングに来るときも『ごめんね、遅くなって』と謝る。そのうえ、一人ひとりにお茶を注いでくれた。すごく気を使ってくれるから、スタッフも『美穂さんのために頑張ろう』と気持ちを強くした。双方に思いやりがあって、いい雰囲気の現場でした」

 

当時、アイドルの寿命は短く、人気が3年も続けば大成功。以降は方向転換を余儀なくされた。しかし、中山美穂は3年目に主演ドラマ『ママはアイドル!』(TBS系)で最高視聴率28.6%を獲得。小室哲哉作曲の『50/50』では『ザ・ベストテン』(TBS系)に9週もランクインし、自己最高の2位を記録した。同番組の3代目司会者・松下賢次(72)が話す。

 

「一度、TBSの屋上で花火を打ち上げながら歌ってもらったら、煙だらけになって、ぜんぜん前が見えなくなった。それでも、嫌がらずに最後までやり抜いてくれました。放送後に赤坂消防署が来て、プロデューサーが謝ってましたよ。美穂さんは『風雲!たけし城』の戦車に乗って歌ったり、いろんな企画に快く参加してくれましたね」

 

同時期に発売されたアルバム『ONE AND ONLY』では初めて作詞した曲が「北山瑞穂」名義で収録され、次作のシングル『CATCH ME』(作詞、作曲・角松敏生)は初のオリコン1位に輝く。だが、あまりの仕事量に体が悲鳴を上げる。溶連菌感染症を患い、10日間活動休止を余儀なくされた。

 

「入院する直前も、熱があるのに出演してくれました。プロ根性があった。『ベストテン』出演拒否の歌手が続出したころでしたけど、彼女はランクインすれば、ほぼ出てくれました。どうしてもダメなときでも、ドラマのロケ先からトークをしてくれた。本当に助かりました。忙しい歌手は本番のみになりがちですけど、美穂さんはリハーサルから参加してくれて、うれしそうに歌ってましたね」(松下)

 

デビュー4年目の’88年、代表曲となる『You,re My Only Shinin, Star』が2作連続オリコン1位、『人魚姫』が『ザ・ベストテン』で初の1位に――。

 

いっぽうで美穂さんは同年2月、田原俊彦(64)とのデート現場を『FRIDAY』に撮られていた。トップアイドル同士の恋愛は一筋縄ではいかない時代。恋人が発覚すると人気が下がるため、周囲は猛反対した。彼女の頭には疑問が渦巻いた。

 

《「どうして一緒に街を歩いちゃダメなの?」「当たり前だ。そんなのダメに決まってるだろ」。でも、どうしてもその意味はわからなかったな。ごく身近にいた人たちは応援してくれたんですよ。けど、応援すると、そのひとまわり外にいる人たちに責められるの。なんだかややこしいでしょ》(『月刊カドカワ』’93年11月号)

 

芸能界での成功と引き換えに、私生活は縛られた。スターゆえの苦悩を抱えながらも、美穂さんは邁進する。’89年7月発売の『VIRGIN EYES』では、憧れの杏里に作曲を手掛けてもらった。

 

「彼女の物静かな面と内に秘めた情熱をダンスミュージックに乗せて表現し、新しい世界観を生み出したいと考えました。そして、美穂さんは見事にこの曲を自分のモノにしてくれました」

 

このころ、芸能界は大きく変わり始めていた。’89年秋に『ザ・ベストテン』、’90年春に『歌のトップテン』(日本テレビ系)、秋に『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)と昭和を彩った歌番組が次々と終了。“アイドル冬の時代”が訪れ、美穂さんのシングルは’90年には売り上げ10万枚台と半減してしまう。

 

すると、彼女はまたしても新たな一面を見せ、難局を打開した。10月開始の月9ドラマ『すてきな片想い』(フジテレビ系)で野茂俊平(柳葉敏郎)をいちずに想う与田圭子を演じ、最高視聴率26%を獲得。主題歌『愛してるっていわない!』も36万枚を突破した。

 

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