「僕は腎臓移植アンバサダー」小錦八十吉さん・千絵さん夫婦は常に一心同体で共に歩み続ける
画像を見る 結婚21年……。一心同体の夫婦は腎移植手術で、絆を強めた。「今のお互いにハニーと呼びます」と千絵さんは夫に微笑む(撮影:高野広美)

 

■どこでも飛び回れるようになった僕には「腎臓移植アンバサダー」の役割がある

 

都内の最高気温が25度を超えた5月11日、両国国技館前は大相撲夏場所・初日を目当ての人々で、ごった返していた。

 

小錦さんは、両国駅前でキャラクターグッズを販売する出店を構えるのが、東京場所の恒例だ。

 

テントの奥で大きな椅子に腰を下ろす居住まいは、土俵下で呼び出しを待つ大関の風格のまま。

 

グッズ購入者との撮影やサインは気さくな笑顔で、インバウンド客には英語をまじえて応える。横でサポートするのは千絵さんだ。

 

「手術後の夫は、免疫抑制剤を忘れずに飲む以外、ふつうに生活ができています。私も呼吸が苦しいとかもなく、手術前と変わりなく過ごせています。

 

食事は薄味にして野菜を多めに。今日がお肉だったら明日は魚と、バランスを心がけています」

 

ファンの前へと戻ってきた小錦さんは「相撲アンド寿司」の米国興行を今年も予定しているという。

 

「それからね」と小錦さんが語る。

 

「どこでも飛び回れるようになった僕は『腎臓移植アンバサダー』という役割もあると思っている。

 

健康保険や助成制度もある日本の医療制度は、とても素晴らしいよ。腎臓移植が必要な人たちと、家族にも広く知ってほしい」

 

傍らでうなずく千絵さんだが、手術のことを、脳梗塞で闘病中の母には反対されていた。

 

結局、事前に告げずに手術することになったのは、夫が入院する日に母の脳梗塞が再発してしまったからだった。

 

母は入院治療によって、大事には至らずにすんだ。だが小錦夫妻が腎移植手術の退院時に会見したことで、母に知られてしまった。

 

千絵さんが打ち明ける。

 

「仕方なく、事後報告しました。そうしたら『千絵のことだから、提供すると思ってたよ』って」

 

千絵さんの、思い切りのよさ。アクティブで、竹を割ったようにサバサバした性格は、母譲りだ。

 

「父が亡くなったのは、母が50代になったばかりのころです。何事も迷わずパッパと決めていく姿を、私も見てきました。

 

だから『くよくよ悩むより、やってみよう!』という性格は母に似ていると思う。母も内心、わかってくれたんだと思っています」

 

とはいえ後期高齢者にさしかかる母はリハビリが必要で、現在は千絵さんが自宅で世話している。

 

超高齢化する日本は、小錦夫妻のみならず、親の介護が世代共通の課題で、社会問題でもある。

 

「倒れてからは私がいつも一緒にいます。幸い母は歩けますので、寝起きは自分ででき、犬の散歩も私と一緒に行けるんです」

 

だから、高齢者施設への入所は「いまのところ考えていません」

 

小錦さんは、次のように語る。

 

「自分の命をもらったのは、パパとママからだよね。だからママのことを一生懸命やるのは、面倒を見るのは、当然だと思うよ。

 

日本には行き届いた高齢者施設があるけど、ハワイは老人ホームに入れる文化はない。僕たち夫婦はママに尽くして、いままでできなかったことをしてあげたい」

 

その体と同じほど、大きな愛と慈しみでれている小錦さんは、まさに「頼れる男」そのものだ。

 

「主人が私の母を大事にしてくれる気持ちが、いちばんうれしいんです。『ウチのママが─』という彼の言い方も好きです」

 

母と夫と、これからなにをしたいかと聞くと、千絵さんは、

 

「これまで欲のない生活をしてきた母ですので……おいしいものを食べて、温泉につかってほしい。まずは箱根に行きたいですね」

 

そう言って隣の小錦さんに目配せした。ややあって、希代の大関はニコッと笑って言った。

 

「僕もまだまだ、世界中を飛び回って仕事しなきゃね!」

 

国技館の大屋根が、夏日の陽光で黄金色にきらめいていた。

 

(取材・文:鈴木利宗)

 

画像ページ >【写真あり】2024年12月4日、千絵さんが腎摘出手術、次に6時間かけて小錦さんに腎移植手術を。2日後にICUで術後初めて夫婦は対面(他2枚)

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