■「正直、お金を使う暇もなかったんです。もう漫画しか描いていない生活でした」
楠桂さんが生まれたのは、’66年3月24日。愛知県に住むサラリーマンの父と専業主婦の母、双子の姉との4人暮らしだった。
「私たちが生まれる前に兄がいたのですが、3歳のときに車のひき逃げにあって亡くなって……。両親にはそのときの恐怖があって、私たちは“閉じ込め育児”を受けました」
放課後に友達から遊びに誘われても、親からは外出禁止。
「だから家での遊びはお絵描きばかり。スケッチブックにクレヨンでムーミンの絵を描いたりしていました」
自宅に少女漫画家になるための本もあり、そのレクチャーどおりに夢中になって絵を描き続けた。
「小学校時代はノートに鉛筆で漫画を描いていましたが、中学からはペンと墨汁を使い始めました」
成績が下がると漫画が禁止されるため、テスト期間は猛勉強。
「学校の成績は悪くはありませんでしたが、双子の姉は学年のトップクラス。姉に劣等感を抱くことも多かったのですが、漫画では私のほうが早くに賞をもらったり、デビューできたりしました。それが救いでもあったんです」
漫画が自己肯定感を高めてくれたのだ。ペンネームは、木偏が好き、漢字2文字にしたい、男性か女性かわかりにくい名前にしたいといった理由で“楠桂”に。
その名で、中学を卒業した春休みに『りぼん』に投稿した作品で佳作に選ばれて担当編集者がつき、高校1年の夏休みに投稿したホラーコメディ『何かが彼女にとりついた?』で受賞を果たした。
「最年少の15歳で、将来性を見越まれての受賞のようでした。担当編集者は厳しくて『あなたが20歳だったら受賞していなかった』と言われたり(笑)。ストーリーの評価は高かったのですが、自信があった絵の評価は低くて。でも、描き続ければ、いくらでもうまくなるとのことでした」
高校時代は年2本ほどのペースで読み切り作品を描き、雑誌に掲載された。
「当時はファクスもなかったので、東京の出版社とのやりとりは郵送。ネームを描いて編集者に送ると、赤字で訂正箇所が指摘されて戻ってくるんです」
高校を卒業してまもなく、戦国時代を舞台にした忍者の物語『妖魔』の連載が決まった。愛知県での執筆は手間がかかったが、「絶対に東京に行かせない」という両親の意向もあったという。
絵柄が少年漫画向きだったことから、20歳のときに『少年サンデー増刊号』(小学館)からの仕事が舞い込み、描き始めたのが、マザコンの男子高校生が主人公の『八神くんの家庭の事情』だ。
「最初は読み切りのつもりだったのですが、すぐに続編を描くことになって、気づいたら連載に」
同作品はドラマ化もされた。さらに神剣を操る少年と鬼との戦いを描いた『鬼切丸』の連載も始まって仕事は順調だったが、原稿料の管理は親がしていたので、いくら自分が稼いだのかわからなかった。
「ブランド品にはあまり興味がなかったし、当時は徹夜続きで肌荒れもひどくて人前に出るのが怖く、正直、お金を使う暇もなかったんです。もう漫画しか描いていない生活でした」
母親は楠さん名義で家を建てた。7年ローンで月々の返済は50万円もあったが、繰り上げ返済して5年で完済。高収入すぎたせいなのか、税務署による調査が……。
「父は『経費をきちんと使わないと税金が高くなる』ことを学んだようです。自宅から車で2~3分の場所に仕事部屋として借りていたマンションに最新型のコピー機を導入することにしました。そのとき営業マンとしてわが家に現れたのが、元夫だったのです」
5歳年下の彼は営業マンらしく人当たりのいい、爽やかな眼鏡男子だった。
「アシスタントといっしょに食事会をしたりするうちに、なんとなく引かれ合って、交際しましょうかということに。
あるとき“このままいっしょにいられたら、結婚しようか”と、2年後のヒルトンホテルの式場を予約しました。もし別れたらキャンセルすればいいと……」
少女漫画のような恋愛ストーリーを成就させて’98年に結婚。’00年には長女に恵まれた。
(取材・文:小野建史)
【後編】「漫画として描いたら気持ちがスッキリしてきた」熟年離婚の顛末を配信中の楠桂さん “サレ妻”をテーマにした執筆依頼も急増中へ続く
画像ページ >【写真あり】離婚体験を赤裸々に描いて話題を集めている『サレ妻漫画家の旦捨離戦記』(他4枚)
