手:人の出入りが多いので玄関の鍵も開けっぱなし。すると、お酒を飲んで終電を逃した編集者が「手塚さんちなら開いている」と泊まりにくるから、玄関の鍵を閉めるようになったんですよ。それでも「トイレの窓なら開いている」と入ってくる人も。その編集者は出禁になりました。
丈:うちの父は忙しい中でも、一生懸命、家族との時間を作ってくれました。父がいつもネーム(漫画の下書き)を描くのに使っていた、「ラタン」という喫茶店の父の特等席で、ケーキやコーラを頼んで、帰りに本やレコードを買ってもらうのが大好きだったんです。
手:私の父も石ノ森先生と一緒で、家族の時間を大切にしてくれました。必ず夏は家族旅行に連れて行ってくれたり。
赤:忙しい先生方に、よくそんなお時間あったね。
手:でも最後まで来なかったこともあるし、旅行先でも締切りギリギリまで漫画を描いて、ついてきた編集者が原稿を持ち帰るようなこともありました。
赤:わかる。私も17歳のときに行ったセブ島では、パパは仕事で2日ほど遅れてやってきました。しかも赤塚不二夫が子供たちと行く、セブ島ツアーで、宝探しなんかもする健全な旅行だったんですが、パパは昼間からずっと飲んでいました。
丈:赤塚先生らしい。
赤:パパが来るまでは、21歳のパパのカノジョと相部屋に。
手:えー! 嫌じゃなかったの?
赤:全然。パパはいつも人に囲まれて、いろんな人との付き合いも多かったから、私の中では“公共物”というイメージ。
帰宅するのは深夜4時とか遅いんです。寝ている私に「女にフラれた」と愚痴をこぼしたり、「りえ子、ビールをつぎなさい」と起こされたり。両親ともに宵っぱりで朝起きれないから、幼稚園にもほとんど通いませんでした。
パパは私が小学校になったころには、ほとんど家にいなくて。小学校で先生がみんなに「赤塚さんのお父さんから漫画の描き方を教えてもらいましょう!」って言ったときは、すごく切なくなったんです。
丈:一方、当時はまだ漫画の地位が低かったですよね。学校の先生も平気で「漫画を読んだらバカになる」って言っていました。たまたまボクと目が合ったら、気まずそうしていましたよ。
手:2世の子たちは、みんな似たような経験あるよね。
赤:なかでも赤塚漫画はPTAの敵でしたから。
丈:おそらく、ちょうどその時代に始まったのが、『仮面ライダー』(1971年、現テレビ朝日系)でした。
赤:私、当たりキャップを集めたら仮面ライダーのワッペンがもらえる「パイゲンC」を飲んでた!
丈:あった、あった。ボクはカードのおまけがついた「仮面ライダースナック」が好きで、自分の小遣いで買ってました。レアカードが当たったときは、すごくうれしかった!
手:え? おうちにサンプルとか送られてこなかったの?
丈:うちの親が偉いのか、自分の小遣いで買えって。今思うと、裏から手を回してもらえばよかったって思います。
手:うちも『鉄腕アトム』のいろんなグッズが家に送られてきたけど、母が全部与えたらろくなことにならないと、どこかに隠していました。子供が悪さしたら父の名前が出るから、母はしつけには厳しかったんです。
丈:うちも。逆に父はすごくやさしかったんです。一度、弱いものいじめのようなことをしてしまって、ビンタをくらったことがありましたが、手を上げられたのはその1回だけでした。
※手塚治虫/手塚プロダクションの「塚」の、正しい表記は旧字体
【後編】「赤塚先生には“ホテル行こうか?”と誘われた(笑)」手塚治虫、石ノ森章太郎、赤塚不二夫 伝説漫画家の子供たちが明かす“豪快すぎる伝説”、家族の交流秘話もへ続く
画像ページ >【写真あり】3人の運命の交差点ともいえる「トキワ荘」に集った2世たち(他3枚)
