■喜劇役者を夢見て日活の試験を受験
「小さいとき、父が園長を務めていた天王寺動物園に連れて行ってもらって、その帰りにエノケン(榎本健一)の映画『孫悟空』を見たのが、最初の“文化への目覚め”ですかね」
こう語る筒井康隆さんは、1934年、大阪市で生まれた。後に、弟が3人生まれ、4人兄弟の長男に。読書を好み、父からルビの少ない弓館小鰐(ゆだて・しょうがく)版の『西遊記』を読んでみろと言われたとき、わざと「色に迷う八戒」という章のタイトルを読んで、うろたえさせたりした。
太平洋戦争が始まる1941年に国民学校に入学。このころ、友人宅で江戸川乱歩の作品に出合った。
「最初は『少年探偵団』や『怪人二十面相』ですね。乱歩の作品の挿絵はものすごく怖くて、衝撃がありました。作家になってから読書体験を新聞連載しているときにこのことを書いたら、そんな怖い挿絵はないと言われて……。そんなわけないとさらに探してもらったら、取り寄せた当時の版に、やっぱりありました」
終戦翌年、小学6年生に進級したときには体育以外はすべて「優」。市役所の教育委員会で受けた知能テストも高得点で、優秀な生徒を集めた特別教室で学ぶことになった。
「しかし、これは疑問でした。やったのは中学の先取り学習。これでは中学に行ったら退屈するだろうなと思いました」
案の定、中学に進学すると学校をサボり始め、映画ざんまい。しかし、多くの映画を見たことは、作家としての糧となった。
「映画館は、父親の本や母親の着物を売り飛ばした金で通っていました。『青空書房』という露店の古本屋に『親が病気だ』と嘘をついて持ち込むと、同情して高く買ってくれたんです」
さまざまな映画作品に触発され、中学2年で演劇部に所属。『手をつなぐ子ら』の先生役で主演。
「高校でも演劇は続けました。2年から部長になって、前からやりたかった喜劇をやるようになった。笑わせて学校一の人気者になりましたよ。もちろんシリアスなものもやりました」
いい演技のコツは、どんな芝居でも心のなかでは冷静でいること。自分を客観視しながら演じるのが筒井流だ。
「小説でも、作者が涙をボロボロ流して書いた小説なんて、ロクなもんじゃありません。冷静に、泣かせるための工夫をすることが大事なんです。演じることと、小説を書くことには、通じるところがありますね」
同志社大学文学部美学芸術学科に進学。大学でも演劇を続け、劇団「青猫座」に入団。宝塚歌劇の演出と脚本を手がけていた中西武夫氏に『廿日鼠と人間』の主役を任された。関西の演劇界では知られる存在だったという。
「喜劇役者になることが夢で、日活の試験も受けに上京したんです。推薦文がいるだろうと中西先生に書いてもらいましたが落ちてしまいましたね。日活が、それまでの文芸路線から小林旭のような活劇路線に変わったんです」
これを機に演劇から離れ、大学卒業後は社会人となった。
「大学で美学芸術学なんぞを卒業したやつなどを採用したい会社はそうそうなく、ボクは学生時代からアルバイトしていた乃村工藝社へ入社しました」
デパートの店内装飾やショーウインドーのディスプレーなどをやらされたものの、自伝では《面白くなくて給料は安かった》と述懐している。
「ただ、国際見本市は面白かったですよ。フランスの展示を任されたんです。担当のフランス人に予算を聞かれたので、多めに吹っかけたら、OKしちゃって。
営業部長に相談したら『さすがに取りすぎだ。お土産にして還元しろ』と言われ、10万円を入れたご祝儀袋を渡したら、向こうもびっくりしてましたね(笑)」
