■江戸川乱歩に認められ、商業誌デビュー
筒井さんは役者をあきらめて小説家への夢を抱き始めた。星新一氏のデビューや『S-Fマガジン』の創刊に刺激を受けたのだった。
「自然科学博物館長だった父と弟3人とで、同人誌を作りました。誌名は『NULL』。会社をサボって喫茶店で原稿を書いて、勤め先と取引のある印刷会社に給料3カ月分を支払って製本しました」
原価360円を一冊100円で売ったのだから、採算は度外視。誰かに注目されるのが狙いだった。もくろみどおり、ある日、とんでもない作家から手紙が届いた。
「江戸川乱歩さんからでした。後日、上京して大豪邸にも行きました。背の高い巨大な椅子を見ては、“これが人間椅子か”などと思ったりしたものです。乱歩さんは白い浴衣を着て出てこられました。なぜか片方の目を手のひらで押さえながら出てこられた。『長篇を書きなさい』とアドバイスされました」
その後、『NULL』の作品が商業誌に転載されるなど、作家への足がかりを得て、乃村工藝社を退職。若手作家としての修業を始めたころ、頭を悩ませていたのがお見合いだった。
「おふくろは、ボクが自慢なんですよ。ボクを手放したくないくせに、あちこちで自慢をして、見合い話を持ってくる。『行かない』と言うと怒るから、お見合いはするのですが、小説で身を立てることで頭がいっぱいで、結婚なんて考えていなかった」
30回ほどのお見合いを経て、妻となる光子さんに出会った。昼間、誰も来ない時間のレストランを貸りてお見合いをしたが、光子さんは始終ぶすっとしていた。
光子さんの実家は神戸市垂水区で牧場を営む豪農。初めてのお見合いだったという。光子さんの両親は、娘の相手に売れないSF作家はふさわしくないと思い、仲人さんに断りの電話を入れようとした。光子さんが振り返る。
「断らないでと、泣いて止めたんです。実業家や医師よりも、作家のほうが楽しそうという思いもありましたし、何より、東京に行きたかったんです」
お見合いのときには無愛想だった光子さんだが、筒井さんが改めて実家にあいさつに行ったときは和服で着飾り、笑顔が美しかった。
「しかも、持参金300万円もいただき、助かりました」(筒井さん)
結婚式では、小松左京氏が雇われ仲人を務め、手塚治虫氏などが列席。祝福ムードのなか、不機嫌だったのが、筒井さんの母親だった。
「ボクが離れていくのが嫌だったみたいで『本当にあんなのでいいのか?』と光子に言うんですよ」
新婚旅行から帰ると、その足で、光子さんが憧れた東京暮らしをするために原宿の転居先に向かった。
「ビルの4階の狭い部屋でしたが、いつもどなたかがいらっしゃるんです」と光子さんが言う。
「おうい」と声が聞こえて下の道路を見ると、遊びに来た小松左京氏と星新一氏が並んで手を振る姿があった。日本にSFという新ジャンルを築こうという仲間と、刺激を与え合った。
結婚後まもなく短篇集『東海道戦争』を出版し、続く長篇『48億の妄想』で自分の書き方を見つける。作家の生島治郎氏からは「あなたは叩けば叩くほど走る馬です」と激励された。
書くほどに小説は売れ、一躍人気作家の仲間入りを果たした。
(取材・文:小野建史)
【後編】筒井康隆(92)長男が51歳で急死、寝たきり危機で「作家として終わった人間」と吐露も…再び老人ホームで小説を書き続ける“原動力”へつづく
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