■皇位継承問題についても持論を展開されていた寬仁さま
没後10年を機に出版された『ひげの殿下日記』(小学館)を監修されたのは彬子さま。
「寬仁さまは会長を務めていた福祉団体『柏朋会』の会報にエッセイを執筆されていました。その内容は障害者福祉から、お嬢さまたちの育児、宮家職員との交流まで多岐にわたります。そうした寬仁さまが遺された文章をまとめたのが『ひげの殿下日記』なのです。
ご本人いわく“身内の小冊子”ということで、かなり自由にかつユーモラスに執筆されていたのですが、“皇統の問題”についても、複数回にわたって記述されているのです」(前出・皇室担当記者)
天皇陛下や皇族方が、公の場で政治的な発言をされることはほとんどなく、特に“男系を維持すべきか”“女性天皇を認めるべきか”といった、皇位継承問題についての発言は実に少なかった。
だが寬仁さまは例外で、会報に寄せた文章でも男系男子による継承をはっきりと求められている。
《二六六五年間の世界に類を見ない我が国固有の歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更して良いのかどうかです》(’05年9月30日付)
《「女系」を認める事は、婿殿の血族をも認める事で、長いスパンで見れば、普通の家系図とそれ程変わらなくなります。その時人々が、神話時代の神武天皇以来、連綿と続く、「万世一系」が途切れた皇統を尊重してくれるか甚だ疑問です》(’10年6月30日付)
前出・皇室担当記者によれば、
「’05年、小泉純一郎首相(当時)の諮問機関『皇室典範に関する有識者会議』の議論により、女性・女系天皇容認論が社会的に盛り上がりを見せ始めていました。
寬仁さまはその動きに危惧を抱かれていたのです。ほかにも《いつの日か、「天皇」はいらないという議論に迄発展するでしょう》と、書いていらっしゃいますが、“男系を維持し続けなければ支持を失って、皇室は滅びてしまう”と、予言されていたわけです。
寬仁さまは、歴史上存在した一代限りの“女性天皇”については認められています。しかし多くの男系維持派は、“女性天皇誕生は女系天皇(母方にのみ天皇の血筋を引く天皇)につながる”として、支持していません。寬仁さまもご存命であれば“愛子さまを天皇に”という意見には“皇室消滅につながる可能性がある”として反対されたことでしょう」
なぜこうした考えに至られたのか? 寬仁さまにお話を伺ったこともある宮内庁関係者はこう語る。
「寬仁さまご本人は『歴史学者の父・三笠宮も男系維持を主張しているから』と、おっしゃっていました。皇統の問題に関する皇族の“肉声”は大変貴重です。保守系の学者や政治家も“寬仁さまも男系男子による皇位継承を訴えられていた”と、いまも自分たちの主張のよりどころにしているのです」
だが静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんはこう言う。
「126代の今上陛下までの系図が確定したのは明治以降のことです。初代の神武天皇も女神とされる天照大神の子孫です。また系図についても、神武天皇から何代目までかは実在しなかったという学説などがあり、万世一系で男系が維持され続けてきたという論拠も崩れ始めているのです。
また私は、男系論者の一部が、愛子さまと旧宮家男系男子との結婚を、皇位継承問題の解決策として主張していることを危惧しています。男系を維持するために、愛子さまの人生を犠牲とするようなことは、国民の1人として絶対に避けるべきとも考えています」