■被災地ご訪問、そして“宿命”へのご決意
このときに両陛下からお見舞いのお言葉をかけられた一人が、同県芦北町で農業を営む矢野解光さんだ。矢野さんは、2020年7月4日未明に自宅の裏山で起きた土砂崩れによって妻・まさ子さんを亡くした。本誌の取材に対し、言葉を振り絞るようにこう語る。
「あの日、家内に『危なかから、避難すっぞ』と話した直後に土砂にのまれました。その後のことは、いまもよく覚えていません……。
かなりの土砂をのみ込んでしまい、肺炎を起こし入院し、家内の葬式には出ることは叶いませんでした。家内が生きていれば、今年金婚式。私たちの人生は、あの災害でダメになってしまいました」
オンラインによる両陛下のお見舞いに、矢野さんはまさ子さんの遺影を抱いて参加した。
「そのころは、家も家内も失い、不安と寂しさで真っ暗なトンネルの中で明かりもないような心地で毎日を過ごしていました。そんなときに、天皇陛下から『お寂しさもいかばかりかとお察しします』とお声がけいただいたのです。それをきっかけに、〝自分も頑張らないといけない〟という気持ちになったと感じています。
天皇陛下と雅子さまが熊本にいらっしゃることがあれば、私が励ましていただいたように、被災者も元気づけられると思います」(前出・矢野さん)
そして両陛下も、懸命に日々を生き抜く生き残った被災者の手を取って苦しみに寄り添い、命を落とした人々の慰霊をなさりたいと心から願われているという。
「ご日程の調整さえできれば、年内にも熊本県をお見舞いされたいとお考えのようです。皇太子妃時代の1999年に訪問されて以来、雅子さまにとっては皇后となられてから初めて同県を訪問されることになります」(前出・宮内庁関係者)
そして熊本県は、雅子さまにとって“因縁の地”でもある。熊本県水俣市。この地を中心に数多くの犠牲者を出した水俣病は、1956年に確認されて以来、現在も一連の問題は解決するにいたっていない。前出・皇室担当記者は、
「海に水俣病の原因となるメチル水銀を放出したのはチッソ株式会社。創業した明治時代から政府の後押しを受け、国家戦略の一部を担うために水俣工場など各地で化学製品を生産してきました。
そして同社の社長を1964年から1971年まで務めた江頭豊氏は、雅子さまの母方の祖父にあたります。それだけに雅子さまも、“因縁と向き合う”という決意を抱かれてきたように感じています。
2013年10月に初めて水俣市を訪問された上皇ご夫妻は、慰霊の碑に供花され、胎児性水俣病の患者たちとお会いになりました。長い年月をかけて、国策によって傷ついた人々と向き合われた上皇ご夫妻の姿勢を、両陛下は受け継がれています。いつか必ず犠牲者の御霊を慰めるために、水俣の地も訪問されることでしょう」
自信を着実に深めている雅子さまは、“宿命”に立ち向かう決意をも固められている。