11月15日朝、皇族最高齢の101歳で薨去された三笠宮妃百合子さま。宮内庁は本葬にあたる「斂葬の儀」を26日に執り行い、喪主を孫の彬子さまが務められると発表した。
「百合子さまは今年3月から聖路加国際病院に入院されていましたが、11月7日の検査で心臓や腎臓など全身の機能が低下していることが判明。イギリスを訪問されていた彬子さまは緊急帰国し、もう一人の孫である瑶子さまや高円宮妃久子さまらご親族が、連日お見舞いに行かれていました。しかし“長男の妻”である寬仁親王妃信子さまだけは、病院に姿をお見せにならなかったのです」(皇室担当記者)
16日夕方には、三笠宮家の親族のみで納棺にあたる儀式「御舟入」が執り行われたが、やはり信子さまのお姿はなかった――。
こうした信子さまの不在は、長年にわたる“家族の確執”が影響しているという。彬子さまは父・寬仁さまが薨去されてから3年後に、月刊誌への寄稿でこう明かされていた。
《寬仁親王家は長い間一族の中で孤立していた。その要因であったのが、長年に亙(わた)る父と母との確執であり、それは父の死後も続いていた。母(編集部註・信子さま)は父の生前である十年ほど前から病気療養という理由で私たちとは別居され、その間、皇族としての公務は休まれていた。私自身も十年以上、きちんと母と話をすることができていない》(『文藝春秋』’15年7月号)
9月16日放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日系)にゲスト出演された際も、信子さまの話題を一切されていなかった彬子さま。寬仁さまと信子さまの別居について、前出の皇室担当記者はこう語る。
「信子さまが寬仁親王邸を出られたのは、’04年のことでした。表向きは“ご療養のため”とされていますが、寬仁さまとの夫婦仲の悪化が原因だったと報じられてきました。寬仁さまを敬愛されていたお嬢さま方からすれば、“病気のお父さまを置いて、家を出てしまうなんて許せない”というお気持ちを抱かれたのでしょう。
ただ、信子さまは危篤状態の寛仁さまに面会するため、何日も病院に通われていました。しかし“ご家族の意向”によって、ご夫婦の対面は最後まで叶わなかったのです。寬仁さまのご葬儀も彬子さまが喪主を務められ、信子さまは参列されていません。こうした出来事もあったためか、信子さまは三笠宮家への態度をより硬化されていったのです」