■少女の宝物になった雅子さまからの手紙
当時の雅子さまの苦悩を知人はこう明かす。
「日に日に犠牲者の数が増えていました。被災者に寄り添いたいお気持ちと、国際親善を担う責務との間で、陛下も雅子さまも身を引き裂かれるようなお気持ちでいらしたのです。
交流を大切に思う雅子さまは、ご訪問先では懸命に笑顔を見せていましたが、ふとした瞬間に悲しそうな表情を見せられていたことが強く印象に残っています」
そんな胸中を察したヨルダン国王の心遣いで、予定よりも2日早く帰国された両陛下だったが、当時の苦悩に満ちた旅程は、いまもお二人の心の傷になっているという。
「天皇陛下と雅子さまはご帰国後、2月と3月の2度にわたって兵庫県を訪問され、慰霊祭に出席されたり、避難所をひたむきにお見舞いされたりしたのです」(前出・皇室担当記者)
そんなとき、一人の少女との出会いがあった。3月5日、両陛下は当時避難所となっていた宝塚市スポーツセンターをお見舞いされたが、そこにはYさん一家も避難していたのだ。
「雅子さまが私たちも身を寄せていた避難所に来られるというので、当時9歳だったSに、『雅子さまの似顔絵を描いてプレゼントしたら』と、提案しました。
娘は『うん、描いてみる』と『女性自身』に掲載されていた、雅子さまのお写真を見ながら、鉛筆で絵を描いたのです」(Yさん)
避難所には画用紙もなく、娘のSさんは、ありあわせの紙を使わざるをえなかった。当時、宝塚市スポーツセンターには50人ほどの被災者が滞在しており、陛下と雅子さまは床に膝をつきながら、一人ひとりに優しく声をかけられた。
そんな雅子さまへ、少女は勇気を振り絞って、似顔絵を描いた紙を差し出したのだ。
「無口な子で、似顔絵をお渡しするときも何も言えずにいたのですが、雅子さまはほほ笑まれ、とてもうれしそうに『どうもありがとう、大切にします』と、おっしゃってくれたのです。娘も、すごくうれしそうでした。
それから1カ月ほどたち、思いがけないことが起こりました。雅子さまから、お礼の手紙をいただいたのです。娘は、その手紙がよほどうれしかったようで、ずっと肌身離さず持っていました。
お友達とけんかをしたり、何かつらいことがあったときなども、お手紙を読み返して励みにしていたのです」(前出・Yさん)
雅子さまのお手紙はやさしさにあふれていた。
《きのうは とてもかわいらしい絵をいただき どうもありがとう。
ひなん所でのたいへんな生活の中で 心をこめてかいてくださったことを とてもうれしく思いましたよ。
こわかった地震の日から つらいこともきっとたくさんあることでしょう。
でも どうかご家族のみなさんとたすけあい、学校やひなん所のお友だちとも なかよく力をあわせて、つらいことものりこえて 元気におおきくなってくださいね。
そして お父さんやお母さんも どうぞおだいじにね。
皇太子殿下とふたりで、ひなん所のみなさんが 元気でいてくださることを いつもおいのりしています。》
住んでいた家を失い、心細い思いをしていたSさんにとって、雅子さまのお手紙は何よりの励みになった。
「つらいときには、お手紙を見て、元気を取り戻していたようです。(娘は)祖母を亡くしたときにも“励ましていただいた”と言っていました」(前出・Yさん)
愛子さまが誕生された’01年12月、当時16歳に成長していたSさんは毎日新聞の取材にこう答えていた。
「(ご出産のために入院された雅子さまには)元気な赤ちゃんを産んでいただきたいと思います。
つらいことがあったときは手紙を読み返し、励まされました。雅子さまの報道を目にするたびに、あのときを思い出し、無事の出産を願っていました」(’01年12月1日付)