(写真・神奈川新聞社)
プロ野球で現役最年長の42歳、横浜DeNAベイスターズの三浦大輔投手が25年間の現役生活に別れを告げる。前身の横浜大洋ホエールズ(現横浜DeNA)時代を知り、1998年の日本一の味を知る、唯一の生え抜きの選手は反骨心と常にともにあった。
迷いはなかった。今季2度目の先発登板した16日の阪神戦。幼き頃、奈良からよくプロ野球を見に訪れていた甲子園球場(兵庫県西宮市)で五回途中で降板し、2敗目を喫した。
その夜、球団幹部らにユニホームを脱ぐことを伝えた。今季は若手の台頭もあり、7月11日まで登板機会がなかった。「先発で勝てなくなったらやめるだけだよ」。ここ数年、そう口にしてきたベテランの心は、1勝もできなかった8月の時点で既に固まっていた。
無名だった奈良・高田商高から球界を代表するピッチャーに成長した。それは低迷し続けたチームの歩みと似る。1998年、プロ7年目の24歳の時に12勝を挙げ、38年ぶりのリーグ制覇と日本一に貢献。「全てが報われた」と喜んだが、心残りは西武との日本シリーズの第3戦で三回途中4失点で降板したことだった。
「もう一度ビールかけをしたい。優勝した翌年からずっと思っている」。ドラフト6位指名からはい上がったように、右腕は再び反骨心を原動力とした。2005年には最優秀防御率などのタイトルを獲得。しかし、優勝争いは遠かった。
08年にはフリーエージェント権を行使し、阪神への移籍で揺れたこともある。それでも、残留を決めたのは「ベイスターズではい上がって優勝したい」との強い思いからだ。負けても、援護に恵まれなくても、愚痴や弱音は吐かない。「打たれた俺が悪い。だから負けた」。そんな一言一言、振る舞いがファンをしびれさせた。
グラウンド外でも野球界に大きく貢献した。1時間近くもサインペンを持ち、丁寧にファンに応じる姿は2月の春季キャンプでは日課だ。1リーグ制の移行も持ち上がった04年の球界再編を経て、自身がその翌年に発案した選手たちによる横浜市内の小学校訪問は今も続き、市外の学校にも広がっている。
マウンドでほとばしる闘争心を持ち、グラウンドを離れたときは温かかった。「お客さんが少なくて、苦しい時もあったけど、どんな時でも見捨てずに応援し続けてくれた。最下位であろうが、きょうこそは勝ってくれると信じてついてきてくれた。一緒に戦ってきたチームメートです」。24日の本拠地最終戦での巨人戦は、ファンにささげるラスト登板となる。