県内ハンドボール界のスターとして、フランスリーグでも活躍し、琉球コラソンの設立に大きく貢献した田場裕也(44)。チーム運営の苦しさから大量飲酒が止まらなくなり、責任を放棄するような形でチームを去った。沖縄も離れてから約10年。自らが立ち上げたコラソンが開催したトライアウトに参加した。アルコール依存症で「止めたいのに泣きながら酒を飲んでいた」状態から脱却しての再挑戦。「多くの人に迷惑を掛けた。少しずつ信頼を回復できれば」。沖縄のハンド界に貢献したい思いがある。
頭髪やひげに白髪が交じる40代はトライアウト会場で浮いていた。成熟した技術と判断力を見せるが下半身の踏ん張りに年の差は隠せない。大先輩の参加だが、歓迎ムードとは言えない空気も漂っていた。
コラソンの設立は2007年。フランスから戻った田場が「あの時しかできないことだった」と、GMとして引っ張り、選手兼監督で活躍していた。ただ「アスリートがいきなり経営をやるのは難しかった」。クラブチームのため、遠征費の確保など資金集めに四苦八苦した。酒はつきあいではなく、ストレス発散の手段と変わった。次第に眠れなくなり、睡眠薬を酒で流し込んだ。「朝から酒がなければ体も動かなかった」。
2010年、恩師らに相談して退団。チームは県協会を中心とする新体制となった。「金城幸信県協会会長や水野裕矢君(現チーム社長)には本当に感謝しかない」
東京に居を移し、依存症治療で有名な神奈川県内の施設に通うが「自分の依存を認められなかった」。治療帰りの電車でチューハイをあおった。酒から離れられず、仕事も単発。見かねた父親の判断もあって昨年、沖縄に戻り、4~6月の間入院した。
酒を断った今は「酒が悪いのではなく自分が未熟だった」と分かる。「沖縄は酒を飲む機会があるから少し大変ですね」というが、酒はもう飲んでいないという。運動療法やグループミーティングを続けるうちにハンドへの熱も再び高まってきた。「入院中の仲間がこれまで5人亡くなっている。好きなことにもう一回チャレンジしたい」。幸い、酒依存による内臓疾患もない。今は学生への指導やマスターズ大会への出場も始めた。
再び日本リーグに戻れるなら「自分は相手エースを全力で抑える守備はできる。何よりコートに気持ちや魂を入れられる。そういうことをしたい」と熱く語る。新陳代謝が必要なチームに受け入れられるかは分からないが、人生を再スタートした今、外聞は気にしていない。「自らつくったチームでいろんな方に迷惑を掛けた。原点である沖縄の地で少しでも力になれるならと思う。少しずつ、一歩一歩頑張りたい」 (嘉陽拓也)