第32回 阿闍世コンプレックス

投稿日: 2015年03月31日 07:00 JST

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お経を聴くのは葬式の時くらい。それも意味が分からないし、お坊さん独特のリズムで読まれるので、聴いているうちにだんだんと眠くなる……。そんな人は多いだろう。 
それじゃ、あまりにもったいなさすぎる!
仏教のエッセンスが詰まったお経は、意味が分かってこそ、ありがたい。世界観が十二分に味わえる。この連載は、そんな豊かなお経の世界に、あなたをいざなうものである。
これを読めば、お葬式も退屈じゃなくなる!?

著者:島田 裕巳(シマダ ヒロミ)
1953年東京都生まれ。宗教学者、作家。東京大学文学部宗教学科卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。現在は東京女子大学非常勤講師。著書は、『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』『葬式は、要らない』(以上、幻冬舎新書)、『0葬』(集英社)、『比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか』『神道はなぜ教えがないのか』(以上、ベスト新書)、など多数。

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インドはしつこく、中国・日本はあっさりと

「浄土三部経」のうち、『観無量寿経』は、中国などで作られた偽経である可能性が高いわけだが、実際、本文を見てみると、そのことが、「なるほど」と理解されてくる。

というのも、『観無量寿経』には、インド人なら重視しないだろうが、中国人ならことさら重要だと考える徳目が強調されているからである。

『観無量寿経』の冒頭は、これは決まり事なので「如是我聞」ではじまり、釈迦が王舎城の耆闍崛山で説法していたという設定がとられている。そこには、大比丘衆1250人とともに、菩薩3万2000が列席していたとされる。

たしかに、釈迦の説法を聞いている者の数は多いが、記述の仕方は単純で、ただ数を上げているだけである。

 

これが、インドで作られたことが明白な『無量寿経』の方になると、説法の場に連なっている弟子や菩薩を一人一人紹介しているので、かなりの字数を費やしている。

私たち日本人の感覚からすれば、そこまで詳しく述べる必要はないだろうと思える。実際、読んでみると、しつこいと感じるが、インドの人々は、詳細に述べれば述べるほど、釈迦の説法の有り難さが伝わってくると思っていたに違いない。

中国人の場合も、私たちと同じで、説法の場をそれほど詳しく述べることに関心をもたなかったようだ。

 

『観無量寿経』の冒頭部分は、実にあっさりしていて、すぐに話の部分に入っていく展開になっている。

けれども、そうなると、お経から有り難みが失われてくるから不思議だ。

無駄であるように思えるところが、本当は重要なのではないか。そんな気にもなってくる。インドの人たちは、そのことがよく分かっていたのかもしれない。

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阿闍世の物語にひそむ「母親に対する罪悪感」

そのあと、『観無量寿経』では、その王舎城にいた阿闍世という王子の話になっていく。阿闍世は、調達という悪友にそそのかされて、父親の頻婆娑羅王を幽閉し、餓死させようとする。

すると、王の后である韋提希夫人は、水浴して身を清め、精製したバターに乾した飯の粉末を混ぜたものを体に塗り、ひそかに王が幽閉されている場所にもぐりこむ。王に体をなめさせ、餓死しないようにしたのだ。

これは、相当にエロチックな場面だ。

昔、日本で『釈迦』(大映、1961年)という大作映画が作られたときにも、この場面が含まれていたように記憶している。

『観無量寿経』によって、この阿闍世の物語は日本で有名になる。もちろんそれは、仏教の世界においてのことだが、さらに、精神科医が取り上げたことで、日本人の精神構造の特徴を説明する理論としても、よく知られるようになっていく。

それが、「阿闍世コンプレックス」と呼ばれるものである。

 

このことばを聞いたことがあるという人も少なくないだろう。精神科医の小此木啓吾という人が広めた考え方である(『日本人の阿闍世コンプレックス』)。

これはあまりよくは知られていないかもしれないが、実は、小此木が、この考え方をはじめて提唱したわけではない。

最初に提唱したのは、日本に精神分析の方法を取り入れた古澤平作という人物である。古澤は、『観無量寿経』の阿闍世の物語に、母親に対する罪悪感の存在を読み取ろうとした。というのも、阿闍世は、母親がこっそり父親に食べ物を与えていることを知って、母親を殺そうとするからである。

 

古澤が阿闍世コンプレックスの存在を指摘したのは、精神分析学の方法を開拓したジーグモント・フロイトが、「エディプス・コンプレックス」という概念を生み出したことを踏まえてのことである。

エディプス・コンプレックスは、フロイトがギリシア神話の『オイディプス王』の物語から思いついたものである。主人公のオイディプス(エディプス)は、予言された通りに父親を殺し、母親を妻とする。

それは、男の子のなかにある母親を独占したいと思いつつ、圧倒的な力をもつ父親の前にはその願望を実現することができないことを神話として表現したものだと、フロイトは解釈した。そこから、男の子は、さまざまな心理的コンプレックスを抱えることになるというわけである。

強い父親という存在は、一神教の世界ならではのことである。ヨーロッパを支配したキリスト教、あるいはユダヤ・キリスト教では、世界を創造した唯一絶対の神を父なる神としてとらえる。人間の父親が家庭のなかで絶対的な権力をもつのも、この神のあり方がもとになっている。

したがって、エディプス・コンプレックスは、ユダヤ・キリスト教特有のもので、そうした宗教を受け入れなかった日本には当てはまらないことになる。そこで、古澤や小此木は、むしろ日本では母親の存在が大きいと考え、阿闍世コンプレックスを提唱するに至ったのである。

 

お経は、『般若心経』のような短いものを除けば、何らかの物語になっている。それが作られたのは、古代のことである。したがって、その性格は自ずと神話に近いものになる。神話は、人間のこころの奥底にある隠された願望を表現したものと解釈できるため、精神医学や心理学の概念を生む大きな源にもなっている。

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