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サッカー男子リオデジャネイロ五輪予選、躍動する選手と対照的に、ベンチでは一喜一憂せず、どっしり構える手倉森誠監督(48歳)の姿が印象的だった。数々の修羅場をくぐり抜けてきた男ー。彼をこう評するサッカー関係者は多い。動じない精神力は、選手時代に培った経験の賜物だった。

 

1986年冬の選手権に青森・五戸高の一員として双子の弟・浩と共に出場し、ベスト8進出。卒業後は、鹿島の前身JSL2部の住友金属に進む。そこでの活躍からユース代表入り。ここから苦難のサッカー人生が始まった。

 

1986年、アジアユース選手権にトップ下として臨んだ手倉森は、宿敵韓国と対戦。だが、2−4と惨敗。試合後、心ない協会関係者から「お前のせいで負けた」と容赦ない言葉を浴びた。

 

それから5年後、住友金属は元ブラジル代表のジーコを招聘。そんななか、事件は起こった。会場にはジーコ見たさに多くの観客が詰めかけていた。後半途中、そのジーコに代わってピッチに入った瞬間だった。観客は「ジーコを見に来たんだ!」とばかりに、手倉森にブーイングを浴びせた。選手のプライドさえ失いかけない光景だった。

 

試練はまだまだ続く。Jリーグ開幕前年の1992年、鹿島と名を変えていたチームから戦力外通告。「故郷の青森で居酒屋を開こう」と、その資金を増やすために、足を運んだのは中山競馬場。全財産の1200万円の半分を1日で使い切った。翌日、半ばやけくそで、残り600万円で購入した1点買いも外れて無一文に。生活費を母の朝子さんに10万円借りたが、じつは弟が親に仕送りしたものだったという。「何をやっているんだ。もう死ぬしかない」と自暴自棄に陥った。

 

だが、“サッカーの神様”は見捨てなかった。NEC山形(山形の前身)から声がかかったのだ。以降、サッカーに身を捧げ、ギャンブルを断つ。1995年現役引退。その後、指導者の道に進み、2012年には仙台をチーム史上最高の2位に導き、ACLにも出場した。そして迎えた今大会。戦うごとに評価を高めた五輪日本代表。それは指導官も同様だった。一方で、手倉森監督はプレッシャーとの戦いだったと、胸中を吐露する。

 

「いつも考えていたのは、『リオに行きたい』『連続出場を途切れさせたくない』。その先は『行きたい行ける行ける』(笑)。だから選手の前では、つねにポジティブな態度でいました。ただ、(五輪への)重圧と言葉で言うと、ものすごいものに思えるかもしれませんが、一人になると負けの怖さとか、出られなかったら、再びサッカー界から去らなければいけないと考えたり。それは『嫌だ嫌だ嫌だ』(笑)。そこで強引にいつものポジティブに切り替える。自分の思いは『(名前でもある)誠』であると信じるしかなかった」

 

歴代監督のなかでもっとも地味で、期待されていなかった無一文指導者。リオでは、1968年メキシコ以来のメダル獲りの大勝負に出る。

 

(FLASH 2016年2月16日号)

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