アジャコングから流血の洗礼…Sareee語る世界進出までの試練
画像を見る プロテストも骨にヒビが入った状態で合格したSareee。

そうして、「帰ってきたSareee」が着手した種々の改革が実を結ぶにつれ、今度は回りまわって「リングの上」が弾け出すようになる。

 

それは「出藍の誉れ」=弟子が師を超えることへの正面からのトライである、今度こそ。

 

「はい、ズバリ、井上京子さんに勝つこと……ベルトを巻いて、ディアナの中心に立ちたいと思いました。私がやりたい『プロレス界のトップになること』は、ディアナの顔としてでなければできない。そのためには、ディアナのチャンピオンにならなければいけない。でも、京子さんには簡単に勝てるものではない。だから……何度も挑戦しました」

 

そして18年7月22日、カルッツかわさきでのWWWD世界王者・井上京子へのチャレンジマッチでのこと。得意技である裏投げを12連発し、とうとう3カウント・フォールを奪うことができた。

 

「もちろん京子さんに勝った瞬間はすごくうれしかったんですが、同時に『ここで喜んで立ち止まってはいけない』という思いも、すでにあった。そこが、自分の挑戦のスタートでしたから。だからこそ、次の防衛戦にアジャコングさん(50)を指名したんです……」

 

アジャコング。言わずと知れた歴戦の強者は、近年では「上を目指す」次世代選手の前に山のごとく立ちはだかる“巨大で強大な壁”としても圧倒的な存在感を示してきていた。

 

いわば、Sareeeが頂点を目指すサクセス・ストーリーを歩んでいくには、避けては通れない最大の“鬼”たる存在だった。

 

「最初のシングルマッチ(18年12月、新宿FACE大会)では、ホント、ボコボコにされて敗れ、WWWD王座初防衛に失敗してしまいました。すぐリマッチを要求したんですが、アジャさんから逆に『ノールール・マッチ』を条件に突き返されたんです」

 

フリーハンドでも強すぎるアジャだが、ときに一斗缶で対戦相手の脳天を打ち抜く凶器攻撃も、あえてする。 “ノールール”では、これらを使い放題のデスマッチとなるのだ。

 

19年2月、新木場ファーストリングで開催された試合は、Sareee史に残る凄惨な内容となった。

 

「どの攻撃でかはわかりませんが、私はいつのまにか頭頂部から出血していて……。動脈を切ったようで、大流血しながら闘ったんです。その試合でも敗れ、結局、病院で8針縫いました」

 

Sareeeはそう言いながら「でも」と言って、あっけらかんと話を続ける。

 

「京子さんや伊藤さんから『骨折はケガじゃない』って言われ続けて、刷り込まれていますから(笑)。京子さんはかつて、肘の関節が外れてしまっても試合中に入れ直して、また闘っていましたし、欠場もしなかった。伊藤さんも、膝を切って30針も縫っているのに翌日また試合していました。自分だって……」

 

というとSareeeはすこし自慢げな笑みを浮かべて、デビュー前のことを振り返る。

 

「プロテスト(11年2月10日)の際、前日の練習で背中の骨にヒビが入ってしまったんですが、スクワット1千回こなしました。肘を脱臼したときも肘をテーピングして出場したんですよ。伊藤さんには『出たいなら練習も休むなよ』とダメ押しもされた(笑)」

 

そして19年、一気に飛躍することとなった年の4月16日には、デビュー戦の相手である里村明衣子(41)とのシングルマッチに臨み、最高レベルの技術と意地の攻防を繰り広げた。最後は得意の裏投げを連発しての片エビ固めで、ついに里村から初フォールを奪った。

 

「自分のやってきたことは間違っていなかったと思えた瞬間でした。新人時代、里村さんにお会いすると毎回のように『サリーは“そのまま”でいてね!』と優しく笑顔でおっしゃってくださった……そんなことが思い出されました」

 

そしてわずか1カ月後の5月12日には、アジャから初勝利してWWWD王座を奪還すると、翌6月8日にはセンダイガールズ世界王座を同世代のトップランナー・橋本千紘(28)から奪取し、2冠王に。

 

その後、プロレス界の世界的スーパースター・トリプルH(51)からのオファーで、急転直下のWWE移籍話が具体化していくのである――。

 

<後編:「ジャガー横田さんに夢託され…」Sareee語るWWE入りの決断 へ続く>

 

(取材・文:鈴木利宗)

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