アジャコングから流血の洗礼…Sareee語る世界進出までの試練
画像を見る 19年には『週刊プロレス』の女子プロレスグランプリを受賞。

17年3月、世志琥らがいる団体「SEAdLINNNG(シードリング)」に参戦することとなったのだが……。

 

「新天地のシードリングでは、同世代同士でバチバチやりたいと思いました。リングの上で、勝負として鎬を削ることで、プロレスの凄みを表現したかった。そのためには、お互いライバルでなければいけないし、つねに競っていたい。でも、シードリングは団体です。みんなで作り上げようという協同意識が優先でした」

 

結果的に、このときのSareeeの思いは空回りし、「ハンパに仲良しこよしになってしまった」のだと振り返る。

 

「自分はバチバチやりたかったんですが、それは自分自身の理想論であって、ディアナも『団体ありき』でした。だから『着実に運営すること』を優先に考えていたんだと思うし、いま考えれば、それも当然だと思う。そのシードリングの半年で、今度は大人として考えましたし、勉強もしました。そんな半年間を経て、自分の肉付けにはなったんだと思っています」

 

17年10月の試合を最後に、わずか半年間在籍しただけでシードリングを去り、ディアナに復帰したのだ。そして結果的に、この半年間の冒険がSareeeを大きく成長させ、母港・ディアナのリングに化学反応を引き起こすこととなった。

 

「一度出て、戻って来たときに気づいたのは、自分の中にあった『ディアナ愛』ですね。育ててくれた団体への感謝もあった。それからは、京子さんにも、伊藤さんにも、自分の考え、意見を遠慮せずに言うようになりました」

 

大先輩たちとぶつかり合うことを端からあきらめ、同志がいると思って移った団体でも、独りよがりの理想が宙に浮いてしまった。実家に戻ることを許された“出戻り娘”は、退路を断つ覚悟を決めて、はじめて本音で、先輩たちに向き合った。

 

「そしたら……やっと対等の選手として扱われるようになった感じがしたんです。以前はなかったミーティングも開くようになりました。『自分も入りますので、ミーティングしてください』とお願いしたんです。風通しがよくなりましたね」

 

そして、自分より下の次世代育成にも、Sareeeのアイデアで着手することに。

 

「新人を3人入れることになりました。練習もぜんぶ『自分がみます』と申し出て。京子さんも『Sareeeにぜんぶ任せるから』と言ってくださったので、自分は休みも取らず指導に当たりました」

 

Sareeeがイチから育てた選手のひとりが、19年10月に中1でデビューした、ななみ(14)だ。

 

「入門当時は小学5年生、12歳でした。試合前にプロレス教室のような感じでお客さんを相手に初歩練習をする時間を設けていたんですが、彼女はそこにお父さんと一緒に来ていて。プロレスに興味があるということだったので、そこから練習に参加するようになりました」

 

ディアナは現在も、一般の人向けのスクールを「プロレス道場」として開催しているが、それはSareeeが始めたプランが結実したひとつの形だ。

 

「ディアナに戻って、自分も意識が変わりました。外に出てみて、自分に足りなかったことに気づいた部分もありましたし、責任感が出てきて『ここが自分の居場所だ!』と思えた。そして、先輩に教わってきたことの意味もわかってきたんですね……」

 

先輩たちにも、臆することなく意見を言うようにしたのには「意図したことでもあったんです」と振り返る。

 

「先輩たちには『いまのプロレス』はわからないですよね。先輩たちは、現在進行形のプロレスをぜんぶ見ているわけではない。ハッキリ言えば『昔のプロレスしかわかってないんじゃないの?』と思うときもあります。だから、グッズ販売の仕方、新人の『いまのコ』感覚……雑用も、いまのコにできる仕様にしました。『いっしょにやること』が、いまのコには大事なんです。『やらせる』のではなく、『いっしょにやろう』と私は心がけましたね。先輩たちには、自分と下のコが『近すぎる』と言われていたんですが、自分が新弟子のころは相談できる先輩がいませんでしたので、自分は『相談される先輩になろう』と思いました」

 

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