羽生結弦 交流12年…八戸の研磨師にブレード託し続ける理由
画像を見る 羽生がブレードに額を押し当てる試合前のルーティン(写真:アフロ)

 

■今も依頼する八戸の研磨師との絆

 

滑る場所を失った羽生は、震災の10日後から横浜のリンクで練習を再開することに。そして“被災で落ち込む人々を勇気づけたい”という思いから熱心に全国各地のアイスショーを回った。その数、なんと震災から半年で60カ所。

 

幼いころから羽生を知る元専属トレーナーの菊地晃さんは’11年の秋に「結弦の体に触ってビックリしました」と言い、続ける。

 

「久しぶりにうちを訪ねてきたので触れてみたら、脚の筋肉がそれ以前と全然違っていました。アイスショーと練習で相当に滑り込んだせいで鍛えられたのでしょう。どれだけ頑張ったのだろう、と思うと僕は涙が出そうになりました」

 

羽生がアイスショーで訪れた地の一つに青森県八戸市がある。会場となった新井田インドアリンクの坂本久直館長はこう話す。

 

「震災後は、ショー以外のときでも、仙台からこちらのリンクまで練習に来ていたことがありました。アイスショーでも何度か来てくれているのですが、毎回、試合と変わらず全力。出演時は必ず4回転を入れていました。当時は4回転を跳ぶ選手は少なくて彼もよく失敗していたんですが、跳べようが跳べまいがやってました。そういう姿に私も力をもらいましたね」

 

坂本館長によると、羽生は現在でも八戸と縁が続いているという。

 

「八戸には、羽生選手のスケート靴のブレードを研ぐ研磨師がいるんですよ。だからいまでも羽生選手のお父さんが仙台から3時間ほどかけて定期的にやってきます。最近では(昨年12月の)全日本選手権の前に来てましたね。そのときには試合用、練習用など4足分研いだみたいです」

 

この研磨師は吉田年伸氏という。実は、吉田氏は羽生の仙台時代のコーチだった阿部奈々美氏の夫だ。

 

「羽生選手と吉田さんの交流は’08年ごろから始まりました。吉田さんがアイスリンク仙台の近くでフィギュア用品店を始め、そこに羽生選手が通っていたそうです」

 

そう話すのはスケート関係者。

 

「羽生選手は、’12年からは仙台を離れカナダを本拠地としていますが、海外にいてもブレードの研磨は吉田さんにお願いし続けていたんです。吉田さんは研磨機1台を羽生選手専用にし、ミリ単位の要望に応えるそうです。羽生選手が滑り、吉田さんが研ぎ、また滑って……ということをその場で繰り返して、2人で調整することもあったとか。そのときは9時間それをやり続けたみたいですよ」

 

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