カーリング女子日本代表・ロコGM本橋「体ひとつで帰郷した日」
画像を見る 平昌で日本カーリング史上初の銅メダル獲得(写真:アフロ)

 

■重要なのはチーム内の意思の疎通と阿吽の呼吸。常呂町のコで編成すれば強みになる

 

「チーム青森を退団し、常呂町に戻ってきたときは、ホントに“体ひとつ”で戻ってきました。メンバーも、スポンサーさんもイチから見つけることから始めたんです」

 

こう話す本橋は86年6月10日、常呂町生まれ。人口は4千人に満たないが、日本カーリングのルーツとして有名になった町である。

 

カーリングは、4人1チームで約45m先のハウス(円)に向かって氷上にストーン(石)を投げ入れ、相手チームと点数を競う。選手が氷上をブラシでスイープする(掃く)のはストーンの方向や速度などを変える技術である。

 

陸上の走高跳と走幅跳をしていた本橋は12歳のとき、常呂カーリング協会初代会長の小栗祐治さん(故人)の勧めで競技を始めた。高校時代に河西建設女子チームで日本選手権3位となり、05年に故郷を離れチーム青森に参加する。チーム青森は、各選手が別々の企業に所属し、青森で選手生活を送るという、青森市と地元企業が連携する地域振興の一環だった。

 

しかし、本橋が出場した2度の五輪(06年トリノ、10年バンクーバー)は予選で敗退してしまう。

 

「そのころ私は、チーム青森のような手厚いサポートを常呂町で受けられるシステム、チーム作りをしたいと思い始めていたんです」

 

当時、本橋をマネジメントしていた近藤学さん(48)が振り返る。

 

「チーム青森は全国から強豪を募りましたが、あくまで“寄せ集め”でした。しかし髪の毛1本の差で勝敗が決まるといわれるカーリングで最も重要なのは『チーム内の意思の疎通と阿吽の呼吸』です」

 

そんなカーリング特有の繊細さゆえに、五輪日本代表は全国から選手個々を招集する方式ではない。全国のチームの中で、日本選手権や日本代表決定戦を勝ち抜いた1チーム5人だけが出場できるのだ。

 

しかし常呂町には選手5人を丸抱えできる規模の企業がなかった。

 

「本橋は考えたと思います。地元の各企業に1人ずつ雇用してもらえば、各社の負担を最小限にできる。そしてチームを地元のコたちで編成すれば、強みになると」

 

10年8月、新チーム設立会見で本橋は、次のように宣言した。

 

「目標は五輪と言わず、一歩一歩、土台作りから始める覚悟です」

 

ロコ創立メンバーで現在も在籍するのは、セカンドの鈴木夕湖とリードの吉田夕梨花の2人だ。

 

「他チームからの選手の引き抜きはしたくなかったので、所属先のないコを探したんです」と本橋。

 

鈴木は当時18歳、旭川高専に通う“リケジョ”だった。常呂カーリング倶楽部会長の小林博文さん(59)が言う。

 

「すでに頭角を現していたコは、常呂を離れていて所属先があった。つまり夕湖は日の当たらない時期を過ごしていたから、麻里から声がかかったといえるんです」

 

小林さんが「天真爛漫でフレンドリー。誰とでも近くなれる」と分析する鈴木だが、ロコ入り後もトントン拍子ではなかった。

 

「北見工業大卒業後、信用金庫に就職したんですが、両立が大変でイライラもあった。チーム内でぶつかったこともあったと思います」

 

人材探しと同時に選手の受け入れ先やスポンサー探しに奔走していた本橋は、次のように振り返る。

 

「選手間で何度もミーティングを重ねました。本音で話せば、当然意見の食い違いも出ます。でも、遠回りでもぶつかることで、結果的に理解し合えると思うんです」

 

心が通じ合うためには衝突も厭わない本橋の姿勢は、当時17歳の高校生、吉田夕梨花の入団時のやりとりからも見て取れる。

 

「最初のミーティングで、私が『なんでも言い合っていこうよ』と言ったら、『私、何でも言うからね』と言い返したのが夕梨花でした」

 

チーム最年少の彼女は、あどけなくおっとりしているように映る。しかし前出・小林さんは「負けず嫌いの努力家で、追い上げて最後に抜くタイプ」と分析する。

 

本橋も「じつは夕梨花が、いちばん心が強い」と明かす。

 

「言葉少なで一見なにを考えているのかわからないんですが、こうと決めたら、しっかり割り切る。

 

独自の視点でほかに流されないので、みんなの意見が一方向に決まろうとしても『こういうパターンもあるよね』と客観的に見られるのが夕梨花の持ち味です」

 

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