■スキップになった藤澤は苦しい時期が続いた。「さっちゃん、思い切りいけばいいよ!」
一方、夕梨花の姉・知那美は、カナダ留学後の11年、北海道銀行に入団したエリートで、14年のソチ五輪出場までは順風満帆だった。だが五輪で敗退後「戦力外通告」を受けてしまう。人生最高の舞台から奈落に落とされたのだ。しかし、捨てる神あれば拾う神あり。手を差し伸べたのは、本橋だった。
「知那美が所属チームを離れることになったのは、なんとなく耳に入っていました。その後、常呂カーリング倶楽部の納会に、知那美が顔を出したんです」
失意を見せまいと笑顔で挨拶する知那美に、倶楽部のメンバーの一人がこう呼びかけたそうだ。
「巨人がダメなら阪神があるぞ」
本橋は、ドッと沸くその場で、「ありかもしれない」と知那美のロコ加入を考えたのだという。
「ロコの選手は当時、『なにがなんでも勝ちたい』気持ちに欠けていた。知那美が悔しさから這い上がるためには闘えるチームが必要で、ロコの選手には起爆剤にもなる。相乗効果になると思ったんです」
14年6月に正式入団した知那美の「努力」について本橋が語る。
「傷ついた心を溶かすには1?2年かかると思っていました。でも、そんなトラウマに近いものと彼女は向き合おうとしていた。試合で誰かがミスしたり、ピンチのとき、彼女が率先して声をかけるようになりました。そんなことを続けていると、ロコは試合に勝てるようになってきたんです」
知那美は、本橋によって人生が好転したといえる。そして、本橋はもう一人の女性の運命も変えようとしていた。スキップ・藤澤五月は91年5月、北見市生まれ。5歳でカーリングを始め、高校卒業後の10年に中部電力に入団、スキップを任された。日本選手権を連覇するも、14年のソチ五輪出場は逃してしまった。
16年の本誌インタビューでは、藤澤はこう語っていた。
「中部電力では恵まれた環境でしたが、自分自身に甘えが出てしまったと思う。『環境を変えたい』と帰郷を考えていたころ、麻里さんに声をかけていただいたんです」
本橋は、次のように述懐する。
「さっちゃんは伸び悩んでいて、試合でも、らしくなかった。『このままつぶれてほしくないな』と。
スランプの選手は環境を変えるのも手ですので、ロコ加入を一つの選択肢として示しつつ、『決めるのは、さっちゃん自身だよ』と」
藤澤にとって本橋は「小さいころからの憧れの存在」で、それまでほとんど話したことがなかった。
「お会いしてみると、麻里さんの視線は次の平昌五輪に向いているようでした。本物のアスリートの目を見た私は、『すごい!』と思ったんです」
そして15年5月に入団したが、その後も苦しい時期は続いた。
「それまで麻里さんが中心で来たチーム。でも麻里さんの妊娠がわかり、私がスキップになってから、ぜんぜん勝てませんでした。『このままスキップを続けていいのだろうか』と悩んでしまって……」
そんな藤澤に本橋は「思い切りいけばいいよ、さっちゃんのやりたいようにやればいいよ!」と声をかけたのだという。
「一つも勝てない時期で、さっちゃんによりプレッシャーがかかっていたと思う。でもそれで個性が消えてしまうようなチームには、したくなかったんです」
そして次第に、チームは底力をつけていった。当初は本橋がしていた雑務や準備なども、メンバーで分担するようになった。
「夕湖は、『麻里ちゃんが全部やりすぎて大変だから』と言って、遠征費の管理をしてくれるようになりました。天真爛漫な割に冷静に見ているんです。遠征の日程管理は夕梨花が。さっちゃんは洗濯チーフにと……」
ロコは、家族よりも一緒にいる時間が多くなり、繊細な心配りで通じ合えるようになっていた。
“阿吽の呼吸”は醸成され、平昌五輪の銅メダルに昇華したのだ。
(取材・文:鈴木利宗)