競泳元日本代表・田中雅美 「私にとって岩崎恭子ちゃんはお姉さんみたいな存在」
画像を見る アトランタオリンピックに出場したときの田中雅美さん

 

■なんでも語り合える友人との出会いが最大の財産

 

北海道から上京してきたのは’94年、高校進学のとき。八王子学園八王子高校の水泳部にスカウトされ、監督宅での下宿生活をスタートさせた。

 

「このころから“オリンピックに行けるかも”と明確な目標にしていたと思います。全国大会に出場したご褒美にウォークマンを買ってもらって、trfや華原朋美さん、安室奈美恵さんをよく聴いていました。長期合宿では1週間に1日オフがあるので、当時増え始めていたカラオケボックスに仲間と行ってリフレッシュ。歌がすごく苦手なんですが、『EZ DO DANCE』(’93年)を踊りながら歌っていました(笑)」

 

同学年の岩崎とともに過ごす時間も増えていった。

 

「国内でも海外でも、大会や合宿のときはいつも一緒の部屋。恋愛話もよくしました。恭子ちゃんは、ほんわかしていてやわらかい雰囲気の人だと思われがちですが、実際はすごく芯が強くて、私にとってお姉さん的な存在。おしゃれにも詳しくて、海外遠征に行くと『いま、こういうブランドがはやっているよ』と、いろいろ情報をくれるんです」

 

水泳でもプライベートでも一緒に過ごす時間が多くなり、うまくいかないときにお互いの悩みを打ち明けられる関係に。

 

「バルセロナ五輪の後、恭子ちゃんにも苦しい時期がありましたが、それを乗り越え、’96年のアトランタでオリンピックの代表に。一緒に選出された私にとっては初めてのオリンピックだったので、すごく頼もしかったです。この時期の私たちの相部屋には、華原朋美さんの『I’m Proud』や安室さんの『SWEET 19 BLUES』『Don’t wanna cry』(ともに’96年)などの曲が流れていたと思います。恭子ちゃんから『アムロちゃんのライブに行ったことがある』と聞いたときは、すごく羨ましかった」

 

同大会ではメダルには届かなかったものの、田中さんにとっては、次のシドニーオリンピック(’00年)へのステップとなった。岩崎は引退後も、田中さんの水泳人生の支えになってくれたという。

 

「シドニーの個人競技で思うような泳ぎができず、レース後、メディアの仕事で会場に来ていた恭子ちゃんに会いたくて。必死で探して、ようやく恭子ちゃんを見つけた瞬間、ボロボロと涙が。『大丈夫、大丈夫』と私の不安を受け止めてくれて気持ちの整理がつきました。そのおかげで、個人競技を泳ぎ切ることができ、メドレーリレーでは、メンバーの支えもあって銅メダルを獲得できました」

 

そんな岩崎との交流は、現在も続いている。

 

「お母さんとしても先輩の恭子ちゃんとは、子どもたちを連れて一緒にスキーに行ったり、温泉に行ったり、時には韓流ドラマの話題で盛り上がったり……。心を許せてなんでも語り合える友人に出会えたことが、私にとっての’90年代の最大の財産です」

 

【PROFILE】

田中雅美

’79年、北海道生まれ。競泳・平泳ぎの選手としてアトランタ、シドニー、アテネと3回のオリンピックに出場。シドニー五輪ではメドレーリレーで銅メダルを獲得した。現在は、スポーツコメンテーターとして活躍するほかに、水泳講師として全国で活躍している

【関連画像】

関連カテゴリー: