■試合をスムーズに進めながら、サッカーの魅力が発揮されるのをサポートするのが主審
「まさか自分が審判になるなんて考えもしませんでした。5つ上の先輩に、大学4年の終わりごろに声をかけられたんです」
審判という職業になるきっかけを、山下さんはこう振り返る。
その「5つ上の先輩」で現JFA女子1級審判員、FIFA女子国際副審の坊薗真琴さん(42)が、声をかけた理由を明かす。
「山下さんは、ご飯を食べにいくときでも、必ず誰かについていくタイプで、目立ちたくない性格。
半面、ピッチ上では攻撃的ポジションのチームメートにガンガン指示を出す。毅然とリーダーシップを取れる強さがあったんです」
選手と違って審判に「楽しさ」は感じられなかったが「気づき」が多くあったのだと振り返る。
「主催者、会場係、サポートの方……たくさんの協力で初めて試合が成立することに気づきました。
そのなかでの主審の役割とは、試合をスムーズに進めながら、サッカーの魅力が最大限に発揮されるのをサポートする立場だと」
ただ、この時点では社会人選手でもあり“二足のわらじ”だった。
4級から順を追って審判資格を取得していた山下さんは、女子のトップリーグを担当できる女子1級を’12年12月に取得。
翌’13年に1級取得の研修合宿に参加する必要が生じたが、同時期はチームの大事な試合が重なり、ここで二者択一を迫られた。
「自分でも、ここが岐路になるとわかっていました。覚悟を決めなきゃと。そして『審判の道に進む』と積極的な選択をしました」
なんでも自分で決められなかった山下さんが、このときどうして、決断できたのだろうか。
「それは、なでしこジャパンが’11年にワールドカップで世界一になったことが大きかったんです」
女子日本代表が’11年7月、男女通じて初の世界一となった快挙は、同年3月の東日本大震災で深く沈んでいた国民を元気づけた。
その功績によりサッカー界初の国民栄誉賞をもたらしていたのだ。
「なでしこジャパンが活躍する姿を見て、『じゃあ、私がサッカー界に貢献できることってあるの?』と自問自答していました」
山下さんの心に兆してきたのは、「審判としてなら貢献できるかもしれない」という希望だった。
「ワールドカップで優勝した女子日本代表の選手が競う、レベルの高いピッチで主審を担当すること。
そこで、『サッカーの魅力を最大限に引き出す』役割を果たすことができれば、それが私のサッカーへの貢献になるのではないかと」
先輩の坊薗さんの目に山下さんの変化がハッキリ見て取れたのは、’15年に女子国際審判員の資格を取得したときのことだった。
「彼女の走り方が変化していたんです。選手は腰を低く、小回りが利く姿勢で走りますが、審判は腰を高く、堂々とした走りをしなければいけない。このときの堂に入ったフォームを見て『この人は、とうとう覚悟を決めたな』と」
山下さんは水を得た魚のようにトレーニングに邁進した。
「スプリント力(走るスピード)のアップを主眼に、尾㟢崇仁フィジカルコーチにトレーニングを仰ぎました。同時に国際試合を想定して英語の勉強もしたんです」
地味だけれど着実な彼女の鍛錬に目標が伴ったことで、ついには世界の評価につながっていくのだ。