大谷翔平のいちばん泣いた日 花巻東元チームメイトが証言した二刀流の原点
画像を見る 12年7月、岩手大会決勝で敗れ涙する大谷(写真:日刊スポーツ/アフロ)

 

■震災後、室内練習場で「岩手のために戦う」と誓っていた大谷にケガの悪夢がーー

 

だが、夢に邁進していた大谷に予期せぬ出来事が起こる。’11年3月11日、東日本大震災が発生した。

 

「震災後、翔平は室内練習場に被害を伝える新聞記事を切り抜いて貼り、『岩手のために戦う』と誓って練習していました。1人で背負えるはずがないのに、目つきがガチ(本気)なんですよね。言葉数は少なかったけど、怖さすら感じるほどでした」(小原さん)

 

内陸にある大谷の実家は小さな被害で済んだ。一方、沿岸部の大槌町出身で、捕手の佐々木隆貴さんの実家は津波に流された。両親は避難できたが、釜石市に住んでいた祖父母は命を落とした。佐々木さんはこう言っている。

 

《あの時期、練習中や寮生活で翔平が話しかけてくる回数が増えた。たわいのない内容だけど、何とか励まそうとしてくれていたのが分かった。寮での食事のときには、別の仲間がぼそっと「一緒にがんばろうぜ」と言ってきたこともあった。気恥ずかしくて「ありがとう」とだけ答えた》(「朝日新聞・岩手版」’21年10月3日)

 

岩手のためにも、甲子園で活躍する──。そう誓っていた大谷に悪夢が襲う。県大会を2週間後に控えた7月初旬、練習試合でケガをしてしまい、開脚すらままならない状態になった。当初は左太ももの肉離れと診断された。

 

「私は責任を感じました。それでも、大谷君は決して人のせいにはしない。目いっぱい練習できないもどかしさがあっても、落胆は見せず、今できることに淡々と取り組んでいました」(小菅さん)

 

夏の岩手大会、大谷は3回戦から打者として出場。主に「3番・ライト」で17打数7安打と活躍。投手としては4回戦に一度登板しただけで、1回3分の2を4失点と本来の力は出せなかったが、聖地への切符を手に入れた。

 

憧れの甲子園での初戦は帝京(東東京)だった。4回途中から登板した大谷は最速150kmをマーク。6回には打者としてレフトフェンス直撃の同点タイムリーを放った。しかし、7回に勝ち越し点を奪われ、7対8で敗れた。試合後、「(岩手に)勝利を届けたかった」と泣きじゃくった大谷は「先輩のためにも甲子園で投げたいと思っていた。来年もここに来る。日本一になる」と涙を拭った。アルプススタンドで声援を送っていた山根さんも気持ちを新たにした。

 

「その日、新チームとして初めてのミーティングをしました。僕らの代は、2年の夏から何人も主力として出場していた。投手が3枚いて、すごい打者もそろっていた。実力的に歴代最強だと思ったし、『来年は必ず日本一になろう』とみんなで誓いました」

 

野球漬けの日々だったが、大谷は学校の成績もよかった。同じ寮に入っていた山根さんが思い返す。

 

「翔平は学年のトップ5に入っていたと思います。寮で一緒に勉強をしているとき、字を書かないんですよ、アイツ。ずっとベッドに寝転がったまま、教科書や問題集を見ているだけ。大谷翔平の勉強法は寝転び学習。これが広がったら、受験生によくないと思うんですけど(笑)。とにかく集中力があった」

 

運動神経抜群、頭脳明晰、端正な顔立ち。三拍子そろった大谷がモテないはずはない。学校の廊下を歩くだけでキャーキャー騒がれたという報道もあった。

 

「それはないですね。女子生徒と話していた記憶もない。練習で疲れ果てているので、休み時間は基本的に寝ています。恋人ですか? 野球部は男女交際禁止でした。それに練習が午後9時や10時に終わって、食事して風呂に入ると、何もする気が起きない。内緒で付き合っているヤツもいたけど、翔平はいなかったと思います。わかんないですけど(笑)」

 

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