【前編】甲子園が目標ではない 少年野球チームを率いる「おばちゃん」の教育論「子どもは自分でせな、あかん」から続く
「ほら、そこ! ボールを捕ったらどうするん? 試合やったら、ファーストにボール、放らなあかんねんで。そこを考えながら、受けようや。『捕ったあとは俺、知らん』じゃ、あかんねんて。おばちゃん、ちゃんと見てるんやで! わかった!?」
この日もグラウンドでは、力強くノックバットを振る安子さんの姿があった。
厳しくも温かなまなざしが込められた、おばちゃんのハッパ。元気に応える子どもたちの声が、真っ青な夏空に吸い込まれていく。
「はい、おばちゃん!」
いま「夏の甲子園」はクライマックスを迎え、高校球児たちが熱い汗と涙を流している。
名門少年野球チーム「山田西リトルウルフ」の練習も熱気では高校球児に負けていない。
ひときわ大声でハッパをかけながら、ノックを続ける女性。とても85歳とは思えない迫力だ。
大阪の少年野球界ではその名を知らぬ者のない“おばちゃん”棚原安子さん(85)。チームを率いて50年――。
■貧乏のどん底にいても、つらいことは忘れられる。それがソフトボールだった
1940年、安子さんは大阪で生まれ、兵庫県尼崎市で育った。4人きょうだいの末っ子だった。
「幼いころは病弱で、母によると『2歳まで生きられるかどうか』と言われてたそうです。でも、その後は病気知らず、日増しに元気になって。学校上がるころには、暗くなるまでずっと外で遊んでるような、そんな子どもでした」
物心ついたころから「働いている姿を見たことがない」という道楽者の父。母が内職仕事をして、そして長兄の稼ぎで、家族はなんとか暮らしを立てていたという。
そんな「貧乏のどん底」の暮らしのなか、幼い安子さんに笑顔をもたらしてくれたもの、それはソフトボールだった。
「小学校5年の球技大会。初めてソフトボールをやったら、これがとにかく楽しくて。ソフトボールさえしていたら、つらいこともなんもかも忘れられた」
中学に上がると早速、ソフトボール部の門をたたいた。しかし、明治生まれの父は猛反対。
「『女が棒きれ、振り回してどないすんねん!』って。もう、馬乗りでどつかれました(苦笑)。だから、私はソフトボールの道具を家の中に隠し持つようにして。練習後は、怒鳴られるのを覚悟して、帰宅しましたわ」
父の目を盗みながら続けたソフトボール。高校時代にはインターハイや国体に出場するなど好成績を残すまでに。高校を卒業すると、女子ソフトボール部の活動が盛んな塩野義製薬に就職した。
「塩野義製薬ではソフトボール部はノンプロじゃなくて、福利厚生のクラブ活動だった。だから仕事は絶対におろそかにできない。昼休みと終業後に練習はできましたけど、朝8時半から夕方5時まではきっちり仕事。夜も練習後、毎晩深夜まで残業してました」
現在のパワフルな姿からは想像もつかないが、じつは安子さん、小中高、さらに社会人に至るまで、いじめに遭った経験がある。
「小学校のころ、私をいじめたんはPTA役員の娘。先生に訴えても取り合ってもらえず、悔しかった。『もう学校、行かへん』と、ごねたりもしました。中学以降はソフトボール部のなかに、意地の悪いのがおって。社会人まで一緒のチームでした。いっつも嫌みを言われ、疎外されて。それが本当に嫌で嫌で。退部届を書いたこともある。でも、そこを耐え抜いて、私はソフトボール続けたんです」
仕事は多忙で、チームメートからのいじめには遭っても、白球を追いかける瞬間だけは幸せだった。そして、ここ塩野義製薬ではもう一つ、幸せな出会いもあった。
「同じ会社の野球部に、夫が所属してたんです。なれ初め? じつは、つい先日、私から夫に聞いたんです。『お父ちゃん、どうして私を知ったん?』と。そしたら『お前を見てすぐ、俺の嫁さんになる人やと思った』と笑ってましたわ」
照れ笑いを浮かべながら、安子さんは続けた。
「夫は無口で、あんまりものを言わない人なんです。だから、私みたいなおしゃべりが、ちょうどよかったんと違いますか」
安子さんが22歳のとき、2人は結婚。翌年には男の子が誕生。そこからほぼ1年おきに、棚原家は5人の子宝に恵まれた。
「子どもが増え、住まいが手狭になってきて。それで昭和47年の4月かな、いま住んでるこの団地に、引っ越してきたんです」
そのころ、長男は小学3年生に。「そろそろ野球をやらせたい」と考えていたタイミングだった。
ここに越してきてみたら、団地にはようけ子どもがいて、遊んでた。それを見て私、夫に言ったんですよ。『父ちゃん、子どもら集めて、野球やろか?』って」
