夏の甲子園に負けない熱気!「山田西リトルウルフ」の棚原安子さん、少年野球チームを率いて50年
画像を見る 「子どもと私は対等。ただ年齢のぶん、経験したことを教えるだけ。権力者じゃないから『おばちゃん』なんです」(撮影:馬詰雅裕)

 

■子どもたちは団地850戸から古新聞を回収。不備があれば連帯責任、学年全員でやり直し

 

安子さんたちが現在の住まいに転居してきて2カ月後。1972年6月に山田西リトルウルフは発足した。小学6年生から幼稚園児まで、10人ほどの子どもが集った。

 

「当初は体操服に背番号付けてやってましたね。練習も試合も。その格好で市長杯までは出たのかな。でも、その上の、大阪府の大会に出よう思うたら『ユニホームないとあかん』ってことになって。当時は道具もまともにそろってなかった。とはいえ、子どもたちの親御さんに、あんまりお金の負担はかけたない。それで、思いついて始めたんが、新聞回収でした。2年目ぐらいのことやったと思います」

 

手始めに、安子さんたち家族が暮らす棟の、160戸からスタートした。団員の子どもたちに1軒ずつ訪問させ、古新聞を集めさせた。

 

「集めた新聞、最初のころは古紙回収の業者のおっちゃんに頼んで取りに来てもらったかな。1キロいくらでお金に換えてもらった。最初は800円になった。それでキャッチャーミットを買ったんです。いまなら1万5千円ぐらいするキャッチャーミットが、当時は800円で買えたんですよ」

 

やがて、団地の別棟からも依頼されるようになり、団員たちが受け持つ回収先は徐々に拡大、いまではその数は850戸に。

 

「月にいっぺん、子どもらが集めに行くんです。高層階でも階段で上らせます。いいトレーニングになるんです。以前は全部のお宅にピンポンさせて、きちんとお礼も言わせるようにしてた。それも、子どもらにとっては、社会勉強になる。ただ、住民の皆さんから『いちいち出るのが面倒』って声が多くなってきて。いまは事前にお知らせのビラを子どもらに配らせて、毎月第4土曜日の朝、玄関先に出しておいてもらった新聞を集めて回るスタイルに。多いときは還元金が年間110万円ぐらいになりました。でも、最近は新聞とってない家庭も増えて、いまは1年で50万円ぐらいですね。それは全部、ボールや道具を買いそろえたりする運営費に。だいたい年間運営費の3分の1にはなってますね」

 

新聞回収には1年生から全団員が参加する。ビラの配り忘れなどの不備があれば連帯責任、同じ学年の団員全員でやり直し。果たして“仕事”に対する責任感が芽生えるなど、子どもたちにとっては貴重な労働体験にもなっている。

 

「ユニホームがそろい、チームとしての体裁が整い始めた2~3年目ぐらいからはだんだん成績も上がるようになって。おかげさまで、いまは市の大会はだいたい優勝、ウルフは常勝軍団になりました」

 

■私のことをおばあちゃんと呼ぶのは孫だけ。グラウンドではこれからも「おばちゃん」

 

チームをともに立ち上げた最愛の夫・長一さんは数年前、大病を患い、7カ月半も入院。退院後のいまは、ほとんどの時間を自宅でテレビを見ながら過ごしている。そんな夫を、安子さんはかいがいしく、支え続けている。

 

「これはね、結婚50周年のお祝いで、家族全員で豊岡に1泊旅行したときの写真なんです」

 

そう言って安子さんは“家族の肖像”を見せてくれた。幸せそうに笑みを浮かべる安子さん、そして病に倒れる前の夫・長一さん。金婚式の2人を囲むように、5人の子ども、11人の孫、そしてひ孫たちの姿が。その写真を見ながら、失礼を承知で聞いてみた。「安子さん、年齢的にも『おばちゃん』じゃなくて、『おばあちゃん』のほうがしっくりくるのでは?」と。

 

「あははは、そう、そうなんですよ(笑)。でも、私のことを『おばあちゃん』と呼ぶのは、孫たちだけ。グラウンドでは昔もいまも、そしてこれからも、私は『おばちゃん』なんです」

 

(取材・文:仲本剛)

 

画像ページ >【写真あり】「どんだけ言ってもへこたれんような子にはきつめに、しょげてる子には優しく声をかけるようにしてるんです」と棚原さん(他3枚)

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