「思っていた以上に打たれ弱い人間だった」山下泰裕が語る頸髄損傷事故直前まで感じていた“想像以上の重圧”
画像を見る 「ありのままをさらけ出すのが私の役割」と語る山下泰裕さん(撮影:夛留見彩)

 

■山下さんの柔道は“攻めの柔道”「一歩も引かず、恐れずに向かっていくスタイル」

 

山下泰裕さんは’57年6月1日、熊本県上益城郡矢部町浜町(現・山都町浜町)で、父・六男さん、母・倭子さんのあいだに生まれた。

 

「両親は、生鮮食料品の仲卸業と小売業を営んでいました。『泰裕』という名前は、母方の祖父・泰蔵から『泰』を、昭和天皇から『裕』を1字いただいたものです」

 

出生体重は3千グラムと平均的だったが、1歳11カ月のときに熊本県の赤ちゃんコンクールで最優秀賞となり、小学校入学時には一般の6年生ぐらいの体格だった。

 

柔道との出合いは小4のころ。

 

「体の大きさが抜きん出ていましたから、同級生と揉めたときに、私がちょっと押しただけでも相手は吹っ飛びます。そんな暴れん坊ぶりを見かねた母に剣道を習わされましたが、続かなかった。次に始めたのが柔道で、近所の道場に通いました」

 

入門2カ月で町内大会で優勝、小6で県大会優勝。東海大学2年時の’77年に、社会人も出場する全日本選手権で19歳の史上最年少優勝(以後引退する’85年まで全日本9連覇)。

 

「私のなかでは、『山下の柔道=攻めの柔道』です。一歩も引かず、恐れずに向かっていく柔道スタイルでした」

 

無双状態の山下さんを見舞った挫折は試合での敗北ではなかった。無差別級での金メダル獲得が確実視されていたモスクワオリンピックだったが、ソ連のアフガニスタン侵攻を理由に日本がボイコットすることを決めたのだ。

 

しかしここで山下さんは気持ちを切り替え「前を向いた」と話す。

 

4年後のロサンゼルスオリンピックでは、2回戦で右ふくらはぎ肉離れの重傷を負ってしまう。足を引きずり退場する山下選手を、日曜の早朝、テレビの生中継にかじりついて応援していた多くの国民が心配した。

 

だが山下さんはこの窮地に「内なる声」と自問自答したという。

 

「いままで『一生懸命頑張ります』と言ってきた覚悟は、この程度のものだったのか? いや違う。こんなケガのために、オリンピックで負けてたまるか!」

 

足を引きずりながら臨んだ決勝戦では、両手を広げ、正面から前に進んだ山下さんが1分5秒、横四方固めで勝利し、悲願の金メダルを獲得。

 

母校・東海大学の創立者で当時国際柔道連盟(IJF)会長だった松前重義さんから表彰式で祝福される姿に日本中が感涙した。

 

選手を引退した’85年の翌年に、妻・みどりさんと結婚している。出会いは、みどりさんが勤務していた銀座・和光の紳士服売場を山下さんが訪れたことだった。

 

婚約記者会見では少し照れながらこう語っている。

 

「いっしょに(指導者としての研修先の)英国へ行ってくれますか、と聞いたら、“英国だけなの?”と言われました」

 

引退後は、指導者の道に進んだ山下さんは東海大柔道部監督、全日本柔道男子ヘッドコーチ、アトランタ、シドニー両オリンピック日本代表監督などを務めた。

 

そしてJOC選手強化本部長を経て’19年6月、JOC会長に就任。

 

「このときすでに’20年東京オリンピック・パラリンピック(以後、東京大会)招致の不正疑惑が取り沙汰されていました。スポーツ界全体の緊急事態で、『腹をくくるしかない』と覚悟してお引き受けしたんです」

 

負傷しても前に出る柔道の姿勢そのままに、難局を乗り切る闘いに臨んだのだ。

 

次ページ >医師の診断は「頸椎骨折および頸髄損傷」。「担架で運ばれるときも手足がダラーンと」

【関連画像】

関連カテゴリー: