■「命があるということは、生かされているのよ」復活にあった、みどりさんの励まし
「手術後の記憶は、あまりないんです。生死をさまよっているような状態でしたから。食事はすべて流動食で、胃に管を直接通して栄養を補給していました。病室のベッドに寝たきりの状態で、自分では、はなもかめないんです。一日一日が、生きることで精いっぱいでした」
当初は発話もできなかったため、喉に痰がからんでいても、看護師に伝えることができない。
「冷たい水が飲みたい」と思っても、意思表示ができないのだ。そこで看護師が「あいうえお」の五十音表で、一文字一文字指し示しながら確認した。
「何度か手術を受けるうちに、少しずつ話ができるようになりました。流動食が摂れるようになったのは事故から2~3カ月後です」
頸髄損傷の後遺症として、首から下に麻痺が残った。
「左肘や左肩が少しだけ動きますが、左手首から先はまったく感覚がないんです」
誰かの手助けがなければ、食事もトイレもできない生活となった。想像を絶する苦しみだったと思われるが……。
そう問うと、山下さんは意外にさっぱりした声でこう語った。
「じつは……私自身は、あまりストレスはなかったのです。主治医も、私のそんな様子を見て、驚かれたほどでした。というのは、もとより『なにもできない』状態から始まった入院とリハビリだったものですから」
事故直後は「生死をさまよい、生きるのが精いっぱい」だったのだが、ある日から介助つきで上体を起こしてよくなり、またある日から、車いすに乗ってもよくなりと、わずかずつだが「できること」が増えていったのだ。
そのころ、山下さんは担当医にこう聞いている。
「もしも、左手も動かないような状態だったら、どうなっていたのでしょうか?」
医師は、「それが完全麻痺の状態であれば、横隔膜も動かせませんから、呼吸さえできなかったと思います」と答えた。
「つまり『人工呼吸器を装着しなければ生存していられない状態だった』と先生はおっしゃるんです。また、事故時に脳の損傷がなかったのも幸いでした。2メートル下に落下する過酷な状況で、首の皮一枚つながって命が助かったんです」
そこから山下さんは「生かされた意味とはなにか」を考えるようになったという。それには、みどりさんに言われた次の言葉も大きかった。
「お父さん、こうして命があるということは、生かされているのよ。だから社会復帰して、与えられた役割を果たさなきゃいけないよ。これまでとは違うフィールドで、あなたにできることを、やっていくべきよ」
この病床での励ましが、「過去を振り返らず、前向きに生きる」という山下さん本来の姿勢を呼び戻してくれたのだ。
「もう一度、前向きに生きていきたいと思うようになると、自分に起きていることすべてに意味がある、無駄なことなどひとつもないんだと、自分の状況のすべてを受け止められるようになりました」
また、3人の子どもたちの存在も大きかった。
「子どもたちが幼いころに、家族全員で撮った写真と、娘が成人したときの写真を、ベッドから上体を起こしたときに目に入る位置に掲げてもらいました。毎朝それを見ると『今日も一日頑張ろう』と思えたんです」
妻の励ましに、子どもたちの姿。それらが山下さんに「退院後のビジョン」を描かせた。
「多くの方々に支えられながら、できることを一生懸命やっていく。そんなありのままの姿を、人前にさらけ出してもいいじゃないかと。それで学生や世間の人々に障害者を身近に感じてもらえればいいじゃないかと。それが今日の私に与えられた役割ではないかと気づきました」
そして、山下さんは教壇復帰を決断した。
