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沖縄戦で亡くなった幸地賢盛さんの遺影と、幸地さんが残した雑記帳

 

「朝カラバクダンニオイマワサレテ」。兵士、一住民の目から沖縄戦をつぶさに記録した雑記帳を、沖縄近現代史家の伊佐眞一さん(65)=那覇市首里崎山町=が所有している。筆者は伊佐さんの祖父で、沖縄戦で亡くなった幸地賢盛さん。庶民が残した沖縄戦の記録は貴重で、伊佐さんは「沖縄戦の継承に役立てたい」と公的機関への寄贈を検討している。

 

幸地さんは1907年に生まれた。雑記帳は、2度目となった38年の中国出征の記述から始まり、「上海陥落」「首を斬つて」「涙」といった言葉が断片的に書き付けられている。

 

39年に帰還。第32軍が沖縄に配備された後は、南風原村新川で供出係を務めた。雑記帳には「豚供出割当」「山羊(やぎ)九三羽」などの文字が、個人名と共に記されている。

 

45年3月23日、米軍の沖縄本島上陸を前に「戦争其(そ)ノ日ヨリ毎日戦戦デス」の記述。さらに「四月一日ヨリハ毎日防空ゴ生活になりました」(4月4日)、「朝カラバクダンニオイマワサレテ」(5月6日)と続く。

 

幸地さんの三男、賢造さん(81)=西原町=によると、5月上旬に新川の自宅を出た。山道を歩き、中旬には現在の糸満市に到着。一家は幸地さんを含め8人だった。長女の伊佐良子さん(89)=那覇市=は「父は手帳と鉛筆を胸ポケットに入れて、避難先で時間ができると書いていた」と振り返る。

 

最後の記述は6月4日。「我等(ら)と共命がけ話し さあ此(こ)れからだ 運命」。その9日後の6月13日、幸地さんは米軍の爆撃で亡くなった。一家で唯一の犠牲者だった。

 

生前、幸地さんは良子さんに対し「自分の形見だから、あなたが持っておきなさい」と雑記帳を手渡していた。あれから72年。雑記帳はカバーと共に3分の2ほどが消失し、現在60ページが残っている。

 

記述を全てパソコンで打ち直した伊佐さんは「戦争中は書くこと自体が大変だった。公開する意味があると思う」と話す。沖縄国際大学の吉浜忍教授(沖縄近現代史)も「軍と住民の関係が分かり、住民の記録として非常に価値がある」と評価した。(真崎裕史)

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