今年、生誕90周年を迎えた三島由紀夫。彼に懇願されて美輪明宏さんが主演した舞台『黒蜥蜴』。47年前の初演は大好評を博し、以後再演を重ねてきたが、ついに今春、ファイナル公演を迎えた。この名舞台の“生みの親”でもある三島との知られざる交流を美輪さんが語る――。

 三島さんとの出会いは、今から64年前の昭和26年。私が音楽学校に通いながら、銀座4丁目でアルバイトをしていたお店に、出版社の方たちがお見えになったのが最初でした。

 そのお店は1階が喫茶店で、2階は奇麗な女性がたくさんいるクラブ。当時は銀座のあちこちにクラブができはじめたころ。その2階のクラブには、ホモセクシャルであることを隠した各界の偉い方、官公庁の方たちが集まり始めたんです。さらにそんな噂を聞きつけたホモセクシャルでもない実業家や文化人なども、物見遊山でたくさん来るようになっていました。

 私は1階の喫茶店でウエーターをやっていましたが、時々2階から呼び出されたりも。でも、「芸者じゃないから行きません!」といつもお断りしていました。ちょうどそのころに、三島さんがお店にこられたんです。

 お店のマスターが三島さんから「チップを3倍あげるから、あの子を呼んでこい」と言われて……。私は“チップ3倍”と聞いて「じゃあ、行きます」と(笑)。これが三島さんとの最初の出会いです。

 三島さんから「何か飲むか?」と言われましたが、「芸者じゃないから結構です」と断ったら、「生意気でかわいくない子だな」と。すぐさま私も「奇麗だからかわいくなくてもいいんです!」って。いちいちこんな感じで会話をしてましたね(笑)。そして三島さんから「1曲歌え」と言われたので、シャンソンをフランス語で歌いました。その後、私がシャンソン喫茶「銀巴里」に移ってからもお見えになって、いいお友達になりました。

 ただ、最初に私を見たときはカルチャーショックを受けたそうです。三島さんはもともと真面目な方で、出会ったころは、買い物は三越。1カ月に1回は歌舞伎座、帝劇鑑賞。背広は英國屋で仕立てて、ようかんはとらや、というブランド志向の人でした。これは当時の上流社会の生活パターンで、東京人はそうあるべきというマニュアルでもありました。

 初めてお会いした日、私はルパシカというロシアの民族衣装を着ていて、三島さんからは「なんだその格好は?」と。彼にしてみればとんでもない代物に見えたのでしょう。そのいっぽうで、「こういう生き方をしている人間もいるんだ……」と驚かれたみたいです。それ以降も、会うたびに「趣味が悪い」「もっとまともな格好をしろ」と、けなされましたけど(笑)。

 そんなある日、三島さんに「あなただって、本当はなさりたい服装がおありになるのでは?おっしゃいましよ!」と聞いたんです。そしたら、ボソッと「ジーンズをはいて、革ジャンが着たい……」って(笑)。それで三島さんを案内して御徒町にあるお店を紹介して、革ジャンとジーンズを買いました。後日、三島さんのお母様から「公威(きみたけ・本名)さんにあんな格好させたのはあなたでしょ!」と恨まれましたけどね(笑)。

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