それじゃ、あまりにもったいなさすぎる!
仏教のエッセンスが詰まったお経は、意味が分かってこそ、ありがたい。世界観が十二分に味わえる。この連載は、そんな豊かなお経の世界に、あなたをいざなうものである。
これを読めば、お葬式も退屈じゃなくなる!?
著者:島田 裕巳(シマダ ヒロミ)
1953年東京都生まれ。宗教学者、作家。東京大学文学部宗教学科卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。現在は東京女子大学非常勤講師。著書は、『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』『葬式は、要らない』(以上、幻冬舎新書)、『0葬』(集英社)、『比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか』『神道はなぜ教えがないのか』(以上、ベスト新書)、など多数。
お経は、葬式で聞くものと、連載の第1回目に書いたが、本来は聞くものではなく、唱えるものである。
一般の人にも、お経を唱える機会はめぐってくる。
つい先日のことである。私は京都に行く機会があった。そのとき、久しぶりに「苔寺」として知られる西芳寺を訪れた。
今、西芳寺を訪れるには事前に予約をする必要がある。寺の方に往復はがきで申し込むと、日時を指定される。
私はつれ2人とともに、指定された時間に西芳寺を訪れたが、ほかにも多くの参拝者があり、続々と寺の門をくぐっていく。苔寺なるものはほかにない。それが人気の秘密なのだろう。
受付に行くと、そこで拝観料を納めなければならない。拝観料は3000円以上となっているが、ほとんどの人はきっちり3000円を支払っているし、それ以上出す人はいないようだ。
3000円の拝観料というのは、ほかの寺に比べて圧倒的に高い。
昔は違った。
ところが、一般の寺と同じ拝観料だと、参拝者が多すぎて、苔を勝手に持ち去る者があらわれるなど弊害が出た。それで、高額の拝観料が設定されているわけである。
寺の側は、3000円でただ庭を拝観させるだけでは、やはり申しわけないと考えているのか、その前に参拝者を本堂に集め、法要をし、願い事を書かせる。
そんな法要の際には、住職が出て来て、本尊の前で『般若心経』と『坐禅和讃』というものを唱える。
参拝者も、それに合わせて、『般若心経』と和讃を唱和するのだ。和讃は、禅の心得を易しく和文で記したものである。
『般若心経』は、日本で最もポピュラーな経典である。その特徴は、何よりも短いというところにある。字数にすれば、わずか262文字である。
『般若心経』は、誰もが一度は聞いたことがあるだろうが、唱えるとなると、案外難しい。なにしろ全部漢字だ。寺の方からは、ルビをふったものが配られるが、住職の唱えるスピードはけっこう早い。一度、唱えるのにつまると、ついていけなくなる。
『般若心経』は3回くり返され、その後、『坐禅和讃』は1回だけ唱えられた。100人を超えていると思われる参拝者は、それが終わってから、庭を拝見した。参拝者のなかには、外国人も含まれていたが、彼らがいったいそれをどのように感じたのか、興味深いところだが、残念ながらそれは分からなかった。
全国各地の神社仏閣を訪れてみると、『般若心経』を唱えている人の姿に接することが少なくない。
『般若心経』は仏典なので、神社で唱えるのはおかしいと思われるかもしれないが、近代以前の日本は「神仏習合」が基本で、神道と仏教との間に境目がなかった。
稲荷信仰の総元締めである京都の伏見稲荷大社の背後にある稲荷山を訪れたときにも、山のなかにおびただしく建てられた石碑、それは「お塚」と呼ばれているが、その前で一心に『般若心経』を唱えている人の姿を見かけた。
東京の街を歩いていて、熱心な法華信仰の人の家なのだろう、『法華経』を唱える声が聞こえてきたことが以前はあった。そうした熱心な信者がいなくなったのか、それとも住宅が立派になって、防音が効くようになったのか、どちらかは分からないが、とんと最近はそんな光景には巡り会えなくなっている。