お経を聴くのは葬式の時くらい。それも意味が分からないし、お坊さん独特のリズムで読まれるので、聴いているうちにだんだんと眠くなる……。そんな人は多いだろう。

それじゃ、あまりにもったいなさすぎる!
仏教のエッセンスが詰まったお経は、意味が分かってこそ、ありがたい。世界観が十二分に味わえる。この連載は、そんな豊かなお経の世界に、あなたをいざなうものである。
これを読めば、お葬式も退屈じゃなくなる!?

著者:島田 裕巳(シマダ ヒロミ)
1953年東京都生まれ。宗教学者、作家。東京大学文学部宗教学科卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。現在は東京女子大学非常勤講師。著書は、『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』『葬式は、要らない』(以上、幻冬舎新書)、『0葬』(集英社)、『比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか』『神道はなぜ教えがないのか』(以上、ベスト新書)、など多数。

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◎経巻自体が貴いという信仰

『法華経』について、もう一つふれておかなければならないことがある。

それが『法華経』の「写経」という実践であり、さらにはその先の「納経」という行為についてである。

現代では、印刷技術が発達し、デジタルなコピーも可能になっている。しかし、古代や中世においては、印刷技術さえ十分には発達しておらず、お経を学ぶためには、まずそれを書き写さなければならなかった。お経を学び、それを読むには、その前提として写経が不可欠だったわけである。

あらゆるお経について写経が行われたが、とくに、諸経の王とされる『法華経』の場合には、経巻自体が貴いという信仰が生まれた。それも、『法華経』では、随所で、このお経を受持し、読誦し、書写することには大いなる功徳があるとされたからである。

『法華経』の「法師品」においては、成仏する条件として、「法華経の、乃至一句に於ても、受持、読、誦、解説、書写」することがあげられていた。

image◎末法思想の広まりと納経の流行

そうした信仰から生まれたのが、「装飾経」と呼ばれるものである。これは、さまざまな色に染めたり、ぼかしを施した紺色や紫色の料紙に、金泥を用いて経文を書写し、それを金箔や銀箔で装飾した経巻のことを言う。見返しの部分には、そのお経に関連した絵も描かれ、表紙にも装飾が施された。

奈良時代の代表的な装飾経に、奈良国立博物館などに所蔵されている「紫紙金字金光明最勝王経」10巻があるが、これは、天平13(741)年に、聖武天皇の詔によって国分寺と国分尼寺を建立した際に写経されたものである。『金光明最勝王経』は、四天王などの諸天善神による国家鎮護について説いたお経で、『仁王経』や『法華経』とともに、国を守るための「護国三部経」と位置づけられた。

このように、装飾経は最初、国家護持のために作られたわけだが、仏教に対して個人の救済、来世での救済が求められるようになると、次第に装飾経の対象も変わり、その意味も変化していく。

平安時代の終わりになって、末法思想が広まるようになると、『法華経』による救済を求める法華経信仰が盛んになり、装飾経を神社仏閣に納める納経が流行する。もっとも名高い納経が、平清盛以下平家の一門が安芸の厳島神社に奉納した「平家納経」である。

これは、長寛2(1164)年9月に奉納されたもので、全体で32巻のお経からなっていた。32という数が選ばれたのは、仏に備わる32の優れた特徴を意味する「三十二相」に由来するからである。そのなかには、『法華経』28巻のほかに、その開経と結経にあたる『無量義経』と『観普賢経』、それに『阿弥陀経』と『般若心経』各一巻が含まれていた。平家一門につらなる32人が、一人一巻ずつの写経を担当した。一門あげての大事業だったわけである。

見返しの部分の絵は、宝池から伸びる蓮を描いたものや、人物を描き出した比較的単純なものから、お経からモチーフを得た複雑なものまで多種多様であった。『法華経』の「勧持品」の部分では、普賢菩薩の眷属である普賢十羅刹女が雅びな女性として描かれているし、「譬喩品」では、『法華経』の7つの譬喩のなかでももっともよく知られる「火宅の喩え」の場面が描かれていた。

ほかにも、琵琶湖の竹生島に伝来していることから「竹生島経」と呼ばれる『法華経』の装飾経がある。これは、蝶や鳥、草花などの文様を描いた料紙に「金界」と呼ばれる罫線を引き、そこに経文を書写したものである。

あるいは、一字一字を彩色し、その下に蓮台を描いて、仏が蓮台に乗っているかのように見せた「一字蓮台法華経」といったものもある。どちらも、「平家納経」と同様に国宝に指定されている。

お経は、本来なら、その内容が一番に重要なものになるはずだが、印刷の発達していない時代には、書写された経文自体が信仰の対象になっていった。

 

◎見る者を圧倒する日蓮直筆の曼荼羅

さらに、『法華経』の経題を賞賛した「南無妙法蓮華経」という題目もまた、それ自体で宗教的な価値をもつようになっていく。それは、日蓮が唱えはじめたことで、題目は、「南無阿弥陀仏」の念仏とともに、日本人の信仰行為のなかでとても重要な役割を果たすようになる。

しかも日蓮は、2度目の流罪で佐渡に流されたときから、中央に大きく「南無妙法蓮華経」の文字を書き、その周囲に諸仏諸菩薩や、日本の神々の名前を記した「曼荼羅本尊」というものを描くようになる。日蓮は、それを弟子たちに与えていった。

日蓮の描いた曼荼羅本尊は、今のところ127幅が残されている。おそらく日蓮は、もっと多くの曼荼羅を描いただろうが、そのなかで最大のものが鎌倉の妙本寺に所蔵されているものである。縦160センチ、横100センチで、中心に描かれた「南無妙法蓮華経」の文字は、見る者を圧倒する。妙本寺のものは、日蓮が亡くなるときに、その枕頭に掲げられていたと言われる。

曼荼羅本尊は日蓮の独創であり、日蓮宗の高僧たちはそれを書写したり、真似て曼荼羅を描いてきた。それも、日蓮宗のなかに、題目に対する強い信仰があったからだが、それが諸経の王と言われる『法華経』を対象としたものでなければ、成り立たなかったのではないだろうか。

その意味で、『法華経』というお経は、独自の信仰世界を生み出していったと言える。密教や浄土教信仰、あるいは禅なども重要だが、法華経信仰は、そうしたものに匹敵する影響力を発揮した。だからこそ、『法華経』は、日本の仏教の歴史において、極めて重要な役割を果たしてきたのである。

 

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