「安倍さんは、いったい何を考えてるんだか。多数決で権力握っちゃったら、自分は何でもできる。憲法も変えられると思い込んで。『平和のため、平和のため』って、いったいどんな平和なんだか、わかりゃしない」
神奈川県の逗子市に暮らす郷土史研究家の黒田康子(しずこ)さん(99)は、小さな体を震わせながら一気に言うと、ふうっと大きなため息をひとつ。黒田さんは数え年では100歳。“アラ100”の論客だ。
一目惚れした夫と、戦時下に3年の短い結婚生活を送り、その夫を戦争で失った。戦後は「神奈川県平和遺族会」や「九条の会」に参加。街頭で日本国憲法第9条の大切さを訴えてきた。何が黒田さんをそこまで駆り立てたのか。
「そうですね。夫の、黒田の戦死でしょうね。空っぽの遺骨箱が帰った日からの、その先の人生を私は“余生”と思い、生まれ変わったつもりで生きてきたんです」
夫ののりよしさんは奈良県庁・古社寺課の技師だった。研究者としても有名で、国宝「興福寺仏頭」の発見者でもあった。夫婦喧嘩もしたが、ある朝の出勤のとき、のりよしさんは玄関に飾ってあった興福寺仏頭の写真を見ながら、「お前は仏頭そっくりだ」と言ったという。「たとえ嘘でもその言葉はうれしかったですね」。
’43年に長男が誕生して喜んだのもつかの間、翌年5月、ついにのりよしさんに召集令状が届く。明日は出征という晩、別れを惜しんで夫の実家で家族も含めて十数人が一つ部屋に寝た。
「皆で一緒の部屋なのに、それなのに夫がかかってきてね。そんなこと、できるわけありませんよ(苦笑)。それでも私は泣けて泣けて、夫にすがりついて泣きました」
――同じく“アラ100”の家事評論家、生活評論家の吉沢久子さん(96)。16歳で新聞社に勤務したころ、国際語のエスペラント語を習い始める。その会で医学生の男性と知り合い将来を誓い合うようになった。しかし、その男性は’41年、中国大陸に派遣され戦病死する。
吉沢さんが戦争中の日記を『あの頃のこと―吉沢久子、27歳。戦時下の日記―』(清流出版)として出版したのは’12年の夏のこと。くしくも、日記を読んでほしいと思った戦争を知らない世代の安部首相が、次々にあの時代に逆戻りするような政策を打ち出している。吉沢さんはあきれたように言う。
「どうして今、こう急いでいるんでしょうね。政治家として後世に名を残したいのかなぁ、とか思って。前の日に一緒にご飯を食べた人が、次の日、焼夷弾でいなくなってしまうという経験がざらにありました。安倍さんら為政者の多くはボンボンでしょうし、食べる苦労、お金の苦労などしたこともないはずだから、人の痛みだってわからないでしょう」
黒田さんも、政治家に対しこう語る。
「政治家というのは、だいたい上手に国民を騙(だま)すんです。女学校時代、『日支交戦』というビラを見て戦争が始まったかと驚いていたら、翌日には『満州事変』と名を変えていて、“事変なんだ。戦争じゃなくてよかった”と思ったものです。その後も上海事変、盧溝橋事件……。国民は安心したまま戦争に突入していったんです。そうとは知らず、学生の私はおいしいものを食べ歩いたり、ルンルンしてましたよ」
最後に、黒田さんは自ら詠んだ歌《憲法九条は 不磨(ふま)の大典なり 起草など誰にてもよし 架空にはあらず》を、笑顔で解説してくれた。
「“不磨(磨り減らない)の大典”なんて言葉を使ったのは、私が古い人間だから。でも、安倍さんはじめ憲法を変えようとする人たちは、『アメリカが作って押し付けた』って言うけれど、誰が作ったっていいじゃない。ホントに大事なものなのだから」