「昨年の11月に47年間の政治家人生に自ら終止符を打ち、政界引退を決意しました。ひとつは、政治家としてやり遂げた、という思いがあったからです。私としては『ここが引き際だ』と思ったのと同時に、結婚以来、長年苦楽をともにしてきた妻(智美さん=70)の闘病生活が、もはや限界にきていたからです。引退から1年。現在の私の日常は、難病を患って闘病している妻の看病、介護が基本になっています」
そう語るのは元衆議院副議長の中野寛成さん(72)。中野さんは4歳のときに長崎で原爆投下を体験。その体験から医師を志すが、検査で色覚異常が見つかり、当時は医師になれなかったことから政治家を目指すようになる。
25歳のときに大阪府豊中市市議に初当選。市議会副議長などを歴任し、’76年の衆議院議員総選挙では民社党から立候補して初当選。勇退するまで11期、33年国会議員を務めた。’03年11月には衆議院副議長に就任。このときの功績により、今年春の叙勲で旭日大綬章を受章した。
「私は色覚異常で運転免許がなかったので妻はずっと私の運転手兼秘書という形で、事務所のスタッフと一緒になって選挙区を走り回ったり、私の代理でいろいろな会合に出席してもくれました。そんな妻に異変が表れたのは’08年でした。妻が車の運転をしていると左に、左に寄るんです。豊中市にある有名な神経内科の病院に1カ月近く入院して、いろいろ精密検査をしてもらいました。その結果『脊髄小脳変性症』という難病だということがわかったんです」
脊髄小脳変性症は、脊髄や小脳が萎縮して手足や言葉の自由を徐々に奪われ、最後には体の運動機能をすべて喪失してしまう原因不明の難病で、治療法は確立されていない。国内の患者は約1万7千人で、厚生労働省から特定疾病に指定されている。智美さんは現在、要介護4で、週3回のデイサービスとヘルパー、それに2人の妹と娘2人の協力を得ながら、中野さんは介護を続けている。
「妻を介護するようになってから毎日、介護記録を書いています。将来妻が元気になったときを夢見ながら、やがて妻と私の“思い出手帳”になるように……と思って。引退から11カ月で体重が7キロほど減りましたし、私の場合、脚と膝が関節炎で、椎間板ヘルニアをやって腰が痛い。だから、私にとって妻の介護は楽なことではないし、足腰が痛いときには彼女を支えるのがつらいです。まあ、老々介護ですからね(笑)」
実際に介護をするようになって中野さんが思ったことは、政治家時代に介護されている人、介護している人を、自分が言葉でいかに傷つけていたかということだった。
「政治家時代に私は、介護をしている方に『どうしたんですか?』『病気になるまでなぜ気がつかなかったのですか?』『頑張ってください』と言いました。相手のことを思いやったつもりで。でも、こうした言葉はすべて言ってはいけない言葉であり、相手を傷つける言葉だったんですね。介護をしている方も、されている方も、これまで一生懸命頑張って病気と闘ってきたわけですから」
そんなとき、何げないひと言が中野さんの胸を打つ。
「この前、妻の定期検診で病院に行って、病院ではどう言うのかと思ったら、みなさん『お大事に』なんですね。たしかに『お大事に』という言葉は、患者にとっても、付き添っている家族にとってもいちばんいい言葉だと思いました。こうしたことをみなさんにお伝えするのも、これからの私の仕事のひとつではないかと思っています」