「人間にとっていちばん不幸なのは病気でも貧困でもなくて、自分はこの世にいらない人間だと思うこと」(マザー・テレサ)

 

突然の災害に襲われ、住む家を失い、絆を失った仮設住宅での生活。どれほど寂しく孤独なものだろうか。だが、日本が体験した2度の大災害を通して、仮設の人たちを救い続けた女性がいたことは、私たちに希望の光を与えてくれるーー。

 

宮城県気仙沼市にある面瀬中学校の校庭に建てられた仮設住宅は17棟。1棟あたり9世帯、合計153世帯380人が暮らすことができる。そこにある集会場は、仮設で暮らす人々の憩いの場。壁際には祭壇があり、白枠の額のなかで前髪をまっすぐ真横に切り揃えたボブヘアの女性が、静かにほほ笑んでいる。

 

写真の女性は、黒田裕子さん(享年73)。昨年9月、肝臓がんで亡くなった。最後に「震災から20年を目前にしたこの年に、がんを発症して、命が終わるというのは、どういうことかしらね。私の20年ってなんだったと思う?」という、問いかけを残して。

 

1月17日に発生20年を迎えた阪神・淡路大震災と3月11日で丸4年の東日本大震災の、2つの大震災を通して、合計1,213の被災家族の支援を続けてきた黒田さん。いち早く被災地に入り、365日24時間体制で活動した。そんな彼女を「仮設のマザー・テレサ」「仮設の天使」と呼ぶ人もいる。

 

黒田さんは島根県出雲市生まれ。小・中学校を卒業後、京都の看護学校で准看護師、その後、正看護師の資格を取得。阪神・淡路大震災が起きたのは、’95年、黒田さんが兵庫県宝塚市立病院勤務だった54歳のとき。激しい揺れが収まると、すぐさま病院へと向かった。

 

病院に着くと、地震発生後まだ2時間というのに負傷者が殺到。病院内だけでは収容しきれなくなると判断した彼女は、市立体育館を救護所にすることを提案。霊安室も設け、黒田さんの指揮のもと救護所は24時間体制で対応した。

 

病院機能が平常に戻り、救護所を閉じるころ、新聞にしきりに躍ったのが「孤独死」の3文字。避難生活で心身の体調を崩して亡くなる“震災関連死”も多く、兵庫県の6,402人の死者のうち、関連死は919人だった。

 

「あれほどの大地震で助かった命がなぜ、失われるのか」という激しいショックが、黒田さんを駆り立てた。阪神・淡路大震災後の6月。彼女は、自ら進んで仮設住宅に引っ越した。7月には辞職。副総看護師長の肩書にも未練はなかった。そして、ボランティア団体(現NPO法人阪神高齢者・障害者支援ネットワーク)の仲間と被災者ケアを始めた。

 

神戸市内最大の仮設・西神第7仮設住宅を拠点に、「孤独死予防」「自殺予防」「コミュニティ強化」の3つを目標に掲げ、まず取り組んだのが仮設住民の確認作業。一軒一軒、地道に声をかけてまわった。見守り訪問と並行して、仮設敷地内に約40畳の「ふれあいテント」を設置。24時間オープンのテントは、面瀬集会所の原型だ。また、住民に呼びかけ、自治会も発足させた。

 

先の先まで見据えた黒田さんの支援の最終目的は「仮設住民の自立」だ。仮設住宅を改造し、独居者や少人数世帯のグループハウスを計画。これは日本初の取り組みだった。そんな彼女たちの努力が実を結び、’99年9月までの4年3ヶ月で1,060世帯の人々が暮らした巨大な第7仮設住宅の孤独死は、たった3人だけだった。

 

最後の一人が西神第7仮設を出るのを見届けると、黒田さんは市営地下鉄駅の構内に、デイサービスなど支援活動の事務所兼集会所「伊川谷工房」を構えた。仮設を出て散り散りになった人たちが、新しい環境に慣れるまでのよりどころが必要だ、と。それから20年。工房は今もなお、被災者の癒しの場として続いている。

 

 ’11年、東日本大震災が発生すると翌日には仙台入り。4月初め、面瀬の避難所に拠点を置き、支援を開始。黒田さんが陣頭指揮を執り、ボランティアや看護師らとともに、独居老人や要介護者に対するケアがおこなわれた。自治会長の尾形修也さん(70)は、面瀬を「日本一恵まれた仮設」だと話している。

 

「避難所から自治体発足までの半年間、救護所での黒田さんたちの活動を、皆が見ていましたからね。私らにしたら、救世主が登場したようなもんです。おかげで孤独死も自殺者も出ていません」(尾形さん)

 

黒田さんの面瀬での活動は、死期が近づくころまで続き、その期間は3年4ヶ月にも及んだ。彼女は、面瀬の人々へ「私は死んでもお墓の中にいません。面瀬の空の上に、いつもいます」という最後のメッセージを残している。そして’13年9月24日、被災地に輝いた巨大な星は、空へと昇った。永遠に、人々の暮らしを見守るためにーー。

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