東日本大震災から5回目の、お盆が過ぎた。少しずつ気持ちの整理をする中で、亡くなった家族に“接する”ことができたという体験談を語る人が、増えてきた。被災地で聞いた、ちょっと不思議なエピーソードをご紹介−−。
東日本大震災で、宮城県名取市の沿岸部に位置する閖上(ゆりあげ)地区は、人口5千人以上のうちの750人ほどが津波の犠牲となった。その閖上地区から2キロほど離れた美田園地区は新興住宅地となっていて、急速に新しい街並みが整えられつつある。
美田園地区に店を構える中古パソコン仕入れ・販売店「リライズ」は、震災翌年の’12年にオープンした。社長の樋口恵太さん(34)は、閖上で育った生粋の“閖上っ子”だ。地元で呉服店を営む2代目の父・恵一さん(65)と、母・日登美さんの間に生まれた長男で、幼いころから母親にべったりな「ママっ子」だった。
そして、樋口さんは当時勤務していた仙台市の中古パソコン販売会社で、あの「3・11」を迎える。午後2時46分、突然の大きな揺れが襲う。仙台で、震度6強を記録した。その後、父とは携帯電話で連絡が取れた。
「地震のときは両親ともに店にいたんですが、父は『母を先に逃がしたから、(避難場所の)閖上中学校にいるんじゃないか』と。父は壊れた外壁を修繕するために残っていたようなんです」(樋口さん・以下同)
名取市の近くまでクルマで来たものの、真っ暗な中で目を凝らすと、その先、一面が水没している。結局、その日は車中泊し、翌朝、すぐに閖上中学校へ向かった。
「避難している人は名簿に記してあったんですが、母の名前はありません。各教室もくまなく見ましたが……いないんです。それでもまだ、淡い期待を持っていました」
母の乗っていたクルマを捜し、高速道路で逃げた人が向かったとされる仙台市、負傷者が収容されている病院……と、その後の1週間、父と2人捜しつづけた。樋口さんの夢に母が現れたのは、震災から7日目、3月18日の夜だった。
「どんな服を着て、どんな顔で……っていうのは、何も覚えていないんです。でも、母が一方的に言った次の言葉を、ハッキリと覚えています。それは『あなたは大丈夫だから、ひとりで生きていけるから』という言葉でした」
翌朝、目が覚めた樋口さんは《今日は見つかる気がする》と直感したという。
「その朝、父にもそう言いました。そして空港ボウル(遺体安置所)に向かったんです」
3月19日の午後、樋口さんは揚収されたばかりの母・日登美さんの遺体と対面。日登美さんは民家の垣根の中で、親戚の女性とともに見つかった。
「母はきれいな感じでした。ちょっと頬に傷があったくらいで、色白できれいな母のまま眠っているようでした。それがせめてもの救いでした。いっしょにいたのは祖母の姉妹です。母は父に先に逃がされたあと、高齢の彼女をクルマで迎えに行っていたんですね……」
樋口さん一家は津波で、母と、介護施設にいた祖母、祖母の姉妹の3人を失った。いま、樋口さんは、遺体が見つかる前日に母が夢に現れた「たった一度」の出来事を、こんなふうに考えている。
「3きょうだいで、私がいちばん手のかかる子でした。だから心配だったんでしょう。これからは、私がこの故郷でしっかりとがんばっていく姿を、見せていかなければいけないですね」