「戦後の日本の復興の旗印になったのは築地のマグロです。ツナ缶の材料としてアメリカに輸出するために、築地の岸壁の端から端まで、冷凍マグロで埋まっていました。隅田川に転げ落ちたマグロがあっても、笑ってすませられるような。それほど大量に積み上げられていました」
そう話すのは、15歳から仲買人として築地で働き、マグロ一筋64年。現在は、鮮魚の仲買会社「なり市堺浜」で特別顧問を務める野末誠さん(79)。その後、マグロの国内消費は急速に増えていったという。
「最初の築地のマグロは、フィッシュソーセージの原料でしたが、高度経済成長期に入ったころには、高級魚路線を歩みはじめ、マグロが“築地の顔”になっていきました。それから市場では肩で風を切って歩くような人は“マグロを扱っている人”というイメージが定着していきます」(野末さん)
築地の最大の強みは、一流すし店や老舗和食店がひしめきあう「銀座」が目と鼻の先にあることだといわれる。築地市場の文化団体「築地魚市場銀鱗会」事務局長で『築地市場クロニクル1603−2016』(朝日新聞出版)の著者、福地享子さんが言う。
「どんな商売でも、お客さんはピンからキリまでいます。築地は“ピン”という頂のさらに上、銀座の一流料理人やすし職人のお客さんが多いことが大きな特徴でしょう。目利きのプロである仲買人と一流の料理人が切磋琢磨しあうことが、築地を大きくしたとも言えます」(福地さん)
前出の野末さんは、そんな“築地の匠”たちについてこうこう語る。
「築地には“名人”しかいないんですよ。ためしにセリ場で『よっ、マグロ名人!』と声をかけてごらんなさい。全員が振り向きますからね。みんながみんな“名人”なのかどうかはわかりませんよ。でもプライドは高い。日本の食文化を支えるつもりで本気でやっているんです。私らは医者でいうと外科、内科、皮膚科、眼科あたりになるのかな。それで17秒くらいで“患者1人”(マグロ)を見ていくわけです。懐中電灯で腹の中を探って、触ってみて跳ね返りを感じて、目を見て生きのよさを判断していく−−。誰でも高い値がつけられるマグロをじゃあ商売になりません。いいマグロを安くセリ落とし、自分たちのもうけを出しながら、それを買ったお客さんに喜んでいただく。ただそれだけなんです」(野末さん)