左:子象の失踪を報じる琉球新報紙面(1973年3月17日夕刊)、右:“子ゾウ失踪事件”を伝える1973年3月の琉球新報。(3月23日付夕刊) 画像を見る

 

復帰直後から今日まで沖縄で語り継がれるミステリーがある。1973年の子ゾウの失踪事件だ。タイから那覇空港に運ばれた生後10カ月の子ゾウを必死に探すも発見できなかった。

 

見知らぬ土地でさみしく死んでいったのか。迷宮事案の裏にある悲劇に思いをはせてみた。

 

◇空港から逃走、賞金首に

 

まずは子ゾウ失踪事件の概要を知らなくては。ぶくろ記者は本社の資料室にこもり、当時の新聞をめくった。

 

記事によると、1973年3月17日午前1時ごろ、那覇空港にあったTWA航空の保税倉庫から生後10カ月の子ゾウがおりを破って逃走した。

 

子ゾウはその前日、タイのバンコクからトランス・ワールド航空(TWA)の便で空輸され、午後8時ごろ那覇空港に到着。その約5時間後、警備員が倉庫から逃げる子ゾウの姿を目撃した後、行方がわからなくなった。

 

17日早朝から空港職員やTWA社員、警察、自衛隊などによる大規模な捜索が始まった。TWAは子ゾウに3万円の賞金(当時の公務員の月給くらい)をかけ、広く協力を呼び掛けたが何の痕跡も見つからない。「隣接する自衛隊や米軍基地に逃げ込んだのではないか」とか「海で死んだのではないか」など、さまざまな臆測が飛び交った。

 

結局約2週間後、子ゾウは見つからないまま捜索は打ち切られた。子ゾウが展示されるはずだった「沖縄子どもの国」に子ゾウが届けられることはなかった。

 

◇空港関係者 ”仕事サボって捜索”

 

当時、那覇空港で勤務していた男性は「ゾウを見つけた人に3万円の懸賞金を贈呈する」という新聞記事を読み、同僚とこっそり仕事をサボって子ゾウ探しに出掛けた。

 

空港は関係者以外の立ち入りが禁止されているため、自分たちは「他の人より有利だ」と考え、敷地の中にある防空壕跡などもくまなく探したが、全然見つからなかった。

 

子ゾウが脱走したのは現在の貨物ターミナルビル付近。復帰直後の当時、近くには米軍施設が残っていた。

 

子ゾウは米軍施設に逃げ込んだのでは、といううわさが広がると、報道陣も現場に押し寄せた。米軍が警察に通報し、報道陣を立ち退かせようとすると「ゾウではなく私たちを捕まえるとは何事か」と口論になる一幕もあったという。

 

◇警察官・稲嶺勇さん「見つけられず悔しさ」

 

子ゾウは「遺失物」だったため、最初は那覇署外勤課が捜索に当たった。那覇署の刑事課係長だった稲嶺勇さんは同僚らと「腹が減ったら出てくるだろう」「基地のフェンスにバナナでもぶら下げておけ」と笑い飛ばしていた。

 

失踪から3日―。業を煮やした那覇署長は稲嶺刑事係長を呼び出し、刑事を現場に送るよう指示した。空港に隣接する自衛隊基地内や米軍施設内、瀬長島にも捜査の手を広げた。「死んでいたとしてもあれだけ大きな体で見つからないことはない。臭いがするはずだ」「じゃあ、海は? 海でも死体は浮いてくるだろう」「誰かが食べたとしても全部は食べきれない」などと推理を重ねた。

 

「本当にゾウは沖縄に来たのか」―。捜査員の疑念が高まる中、証拠と目撃者探しを指示。警備員の目撃証言と税関の記録が取れた。そして確信する。子ゾウは確かに沖縄に送られた、と。

 

しかし、探せどゾウは見つからない。県民からの問い合わせでは「県警はあんなに大きなゾウを見つけられないから事件を解決できないんだ」と批判された。「こっちの気持ちは困ったゾウ、ですよ」と冗談めかしながらも「あんなに大きなものを見つけられなかったのは悔しい。刑事として相当じくじたる思いがあるね」と唇をかんだ。

 

◇手掛かり見つからず…いまだミステリー

 

生後10カ月、体重約220キロでタイ・バンコクから沖縄に送られた子ゾウ。ゾウに詳しい関係者らによると、まだ母親ゾウの存在を必要とする月齢だ。なぜ失踪したまま見つからなかったのか。真相はいまだ謎だが、人間の都合に振り回されて悲しく生を閉じた、時代の犠牲者だったのかもしれない…。

 

沖縄こどもの国の前園長・比嘉源和さん(67)は子ゾウ失踪事件の話になると、悔しさを抑えきれない。「そもそも生後10カ月のゾウを母親と離して展示すること自体むちゃだった」。本来ならばまだミルクを与えている時期で、骨も固まりきっていないという。おりから出た後を「エサを自分で摂取できるとは思えず、死んでしまったのではないか。子ゾウなので死んだ後も(固まりきっていない)骨はちゃんと残らない」と分析する。「当時は那覇空港の周辺は茂みが多く、そこで死んでしまったらもう見つからないだろう」

 

ゾウの繁殖は難しく、以前は動物園にはメスだけが輸入され、展示されることが多かった。現在は絶滅の危機にひんしたため、野生のゾウは輸入せず国内で増やす取り組みがされている。生後10カ月の子ゾウを日本に連れてきたことに「今ではあり得ない。昔は『かわいい、かわいい』だけで動物を消費する考え方が強かった。やはり間違っていたよなぁ」と声を落とした。

 

沖縄こどもの国の大宜見こずえ動物園課長(50)も同じ思いだ。「生後10カ月はお母さんゾウのうんちを食べて微生物などを補給する必要がある。おりから出て知らない場所なら、子ゾウもパニックになったのではないか」。見知らぬ土地で生を閉じたかもしれない子ゾウの運命に思いはせた。

 

◇ワニも逃げた コブラも逃げた

 

1960年代には沖縄でワニの脱走事件があった。北中城村安谷屋の山中にあったミニ動物園で起きたとみられる。逃げたワニを捕まえたのが「私のお兄さん」と証言したのは安谷屋の内間恵美子さん。「兄が(ワニの)しっぽを捕まえて家に持ってきた。びっくりした」。体長1メートル20センチほどで、おとなしかった。

 

しかし、あえなく親に見つかり、山に返されたという。しかしワニは一度ではなく何度も脱走を繰り返したらしい。公民館からは「ワニが逃げたから気を付けてください」と注意が呼び掛けられた。

 

コブラの脱走事件も未解決のままだ。93年5月、名護市でコブラ1匹が捕獲された。コブラはどこから脱走したのか―目が向けられたのは当時北部にあった4カ所の観光施設。施設はコブラとマングースの決闘ショー用に計130匹のコブラを飼育していたことを認めたが、脱走については否定。行政や住民は相次ぐ目撃情報を基にコブラ捕獲作戦を展開し、6月28日に1匹を捕獲。施設もコブラを処分し、事態は収束へ向かった。

 

当時、名護保健所に勤めていた長田悦朗さんは「コブラは寒さに弱い。まだ脱走しているのがいたとしても冬を越せないと考えていた」と話す。だが、コブラは越冬し再び出没した。94年9月29日、今帰仁村のゴルフ場でコブラに遭遇した男性は、本紙に寄せた顛末記で「数分間の死闘が繰り広げられた結果、コブラは死んだ」と記した。どこからどうやって、何匹のコブラが脱走していたのか―真相は今も分かっていない。
(2018年5月27日 琉球新報掲載)

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