大阪府吹田市。ここに「皇寿を迎え、なお現役の書道の先生がいる」と聞いた。「皇寿」とは数え111歳の長寿の祝いのこと。つまりは、満110歳の、現役の書道教師がいる……にわかには信じ難い思いを抱えたまま、記者は現地に赴いた。
「あなた、東京から? わざわざどうも、ありがとうね」
菅谷藍さんは110歳のいまも、病院でも施設でもなく、自宅で一人暮らしを続けている。少し曲がった腰をさらに折り畳むようにして、深々と頭を下げ迎えてくれた。張りのある肌。頬はツヤツヤ、プルプルで、部屋の照明を浴びてキラキラ輝いて見えた。シワの少ない顔に、ほんのり紅もさしている。
「『女性自身』ってのは、見たことあるな、ずっと前から知ってるよ」
そこで「創刊60年になる女性週刊誌」と簡単に“自己紹介”。「読者に、菅谷さんという先輩女性の言葉を届けたいんです」と説明すると……。
「フフフ、先輩なんて言ったって、年取ったっちゅうだけの話や。面白くもおかしくもない。たいした話はないよ」
さらに菅谷さん、本誌を手に取り「これ誰?」と表紙の男性タレントについて聞いてくる。「テレビドラマに出ている俳優」と伝えると「あ、そう」と、気のない返事。
「このごろは、もうテレビを見ても男性のことはあんまり見なくなった。男に興味を持たなくなったなぁ、さすがにこの年になったら」
少々大げさに、寂しげな表情を浮かべてみせる。ところが、「何年前まで興味ありました?」と、記者が問うと、途端にいたずらっ子のような笑みを浮かべ、こう答えた。
「4〜5年前まで(笑)」
何を食べてきたら、ここまで元気に長生きできるのだろうか。
「甘いもの大好き。甘いものもからいものも、なんでも好きですよ。特別に好きというものはないのよ。でも、肉と魚なら、肉が好き。牛肉か豚肉がいい。鶏肉はあんまり好きでないな。あっさりしすぎてる」
お酒だって嗜むという。
「少しはね。夏ならビール、冷たいのをパーッと飲むのは好きやね。あなたも酒、飲む? 飲むなら次来るときは用意しておきましょうね。飲む人とお付き合いとなれば、私なんぼでも飲むよ(笑)」
菅谷さんは、体調が悪いときや、書道教室があるとき以外は、ヘルパーさんに頼ることなく、いまも極力、自ら台所に立つそうだ。
「牛肉はね、すき焼きは作るの面倒だからやらない。その代わり、バターで炒めて、刻んだねぎをちょっと入れてお醤油を垂らす。それが簡単でいちばん好き」
110歳で調理をしているという事実に、思わず「すごい!」と記者がのけぞると、菅谷さんは事もなげにこう言い放った。
「な〜んで、そんなことがすごいの!? そんなもの、仕事のうちに入らんでしょう」
菅谷さんの書道教室にお邪魔した。この日、集まったのは庫本則子さん(77)、谷口幸子さん(72)、神園悦子さん(71)の3人。女性が4人そろった教室はじつににぎやかで、まるで女子会のようだ。
「私と谷口さんは先生が96歳のころから通ってるな」(庫本さん)
「そう、もう14年になる。でも神園さんはもっと古いな」(谷口さん)
「私はもう20年ぐらい。たしか先生の80歳のお祝いをしたときからやから……」(神園さん)
「え? そしたら20年と違うよ」(谷口さん)
「30年じゃないの?」(庫本さん)
「あれ、米寿って88歳? 先生、あれは何年でした?」(神園さん)
墨をする手を止め、弟子たちのやり取りをうれしそうに眺める菅谷さん。神園さんからの問いかけに、「そんなん、覚えてないわ!」と、年齢を感じさせないハリのある声で、笑いながら答える。
記者がかけた「本当にお元気ですよね」の言葉に、また女性たちが呼応する。
「ねえ、若いでしょ。ほっぺたツルツルですよ」(庫本さん)
「新聞だって、毎日隅々まで読むんですよ」(神園さん)
「テレビの国会中継も欠かさず見てるのよ。安倍さんのネクタイをチェックしてはる」(谷口さん)
菅谷さんも興が乗ってくる。
「安倍さんのことはあんまり好きではないよ。でも、オシャレは似合う人やな、と思うな。新聞は毎日読む。1面からずーっと。新聞小説も欠かさず。最近はあんまり面白いと思う小説はないけどな。それから三面記事や、殺したの殺されたのってのをな(笑)」
「ガハハハ」と声を上げて笑いながら、菅谷さんは壁にふと目をやった。そこには毛筆でしたためた、こんな短歌が飾られている。
《生きてふたたび たたかふ国乃民とならんか 長寿は空し 夢はてし国》
「去年、私が詠んだ歌。ここのところ、時勢がまた怪しくなってきたなと感じて。『日本がまた戦うような国になったら、長生きしてもしょうがないな』ってこと」
弟子の女性たちは、異口同音に「書を習うのはもちろん、先生のお話を聞くのが勉強になって楽しい」「先生の人柄にほれました」と、話す。
おしゃべりをしながら、菅谷さんは墨をすり続けている。「そうしながら、心を落ち着かせていくんですか?」と記者が問うと「へ? ほんなこと、するかいな」と、また豪快に笑ってみせた。
やがて墨すりの手を止め、菅谷さんは教室の皆に「さてさて、まずは何を書きましょうか?」と尋ねる。すかさず神園さんが、「先生の仮名文字がとっても素敵だから短歌を……何か恋の歌を書いていただけませんか?」とリクエスト。菅谷さんは「フフフ」と笑みを浮かべ、こう答えた。
「恋の歌? もうね、恋なんて、とうの昔に忘れたよ」
そう言って笑った菅谷さんは、「忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は……」と、声に出して歌を詠み上げながら、半紙の上でサラサラと筆を運んでいく。そこには、百人一首で有名な平兼盛の歌がしたためられた。
書き上がったところで、弟子の女性たちが「先生、雅号の下に『110歳』って書いてくださいね」と声をかける。すると、菅谷さんはこう答えた。
「私、いま110歳ですか? あらまあ、ずいぶんと年とったね(笑)」