天皇陛下の執刀医・天野篤さん(順天堂大学医学部附属順天堂医院院長・63)が本誌に独占告白! 陛下の泰然たるご様子と美智子さまの「献身」……。6年前の心臓手術の“舞台裏”がいま明かされる。
2012年2月18日。東京大学医学部附属病院・入院棟14階の特別室をあとにした陛下は、美智子さま、黒田清子さんに見送られるようにして、午後9時24分、手術室にお入りになった。
手術を担当したのは東京大学と、順天堂大学の合同チーム。執刀にあたったのは当時、すでに6,000例もの心臓手術を手がけ「神の手」と称されていた心臓血管外科医、順天堂大学医学部教授(当時)の天野さんだ。
午後11時1分。天野さんの握るメスが陛下の胸に当てられる。歴史上初めての天皇の心臓手術、冠動脈バイパス手術が始まった。
あれから6年――。
手術前日、天皇皇后両陛下に直接、お会いして手術の説明をしたとき、経験したことのない緊張に包まれたと天野さんは明かす。
「たった30分の説明が、3時間に感じられました。全身の水分が、全部背中から流れ出たみたいな感じ。普通だったら映像の中にいる人。会いたくたって会えない人。そういう人と、同じ空気のなかに、僕なんかがいていいのかなと。もう、それぐらい圧倒的に神々しい。オーラが違いました」
説明をお受けになる両陛下のご様子を、天野さんは述懐する。
「天皇陛下は泰然となさっておいででした。医療に対する信頼がおありだったんだと思います。手術のことも、最初からすべて受け入れてくださっていた。『何かご質問はありますか?』とうかがっても『お任せしてありますから』と」
一方、陛下のお体をとても心配なさっていた美智子さまからは、「矢継ぎ早に多くのご質問を受けました」と天野さん。
「皇后陛下はご質問をされるたび、必ず『そうでございましょう』と天皇陛下にご同意をお求めになっていました。それに対して陛下は『うん、そうね、そうね』と」
天野さんは、お二人の深い絆が見えるようだったと語る。
「天皇陛下がお生まれになってから、日本はずっと戦争のただ中でしたよね。そして、皇后陛下に出会うまでに、いろいろご苦労があったわけじゃないですか。皇后陛下のなかには『私がもっと早く出会い、少しでもその辛苦をご一緒に背負って差し上げられていたら』というお気持ちが強くあったと思う。その強い思いを、天皇陛下もきちんと受け止めていらっしゃって。だから、皇后陛下のおっしゃることは基本的にすべて肯定される。あのお二人は、まさしく一心同体、そう感じました」
こうして迎えた2月18日。3時間56分に及んだ手術は、無事に終わった。手術が終わって1時間ほどで天皇陛下は麻酔からお目覚めになった。そして、美智子さま、清子さんのお見舞いを受ける。
「術後のご面会で、天皇陛下は左手を皇后陛下、右手を清子さんにさすってもらいながら『気持ちいい』とつぶやかれていました。おそらく術後の痛みだってあったはずです。それなのに、決してお辛いところをお見せにはならない。手術前、偉ぶることなく全員にお声をかける陛下にも感動しましたが、ご自身の威厳をしっかりと保つお姿は、とても神々しく思えました」
――半年後の’12年夏。両陛下は天野さんを食事会に招かれた。吹上御所の応接間の窓からは、満開のキスゲの花が見えたという。
「皇后陛下が『奇麗でしょう、いまがいちばんの見ごろなんです』と説明してくださいました。天皇陛下は、キスゲの隣にあった大きな木をお示しになって『悠仁がカブトムシをよく捕りにくるんです』と。そのお顔からは、お孫さんのことが可愛くて仕方ないというお気持ちがにじみ出ているようでした」
そのとき、御所で供されたのは松花堂弁当。その中にカツオの刺身が入っているのを見て、天野さんは驚きを隠せなかった。
じつは手術後、天野さんは天皇陛下に、「ご回復のためにも食事できちんと栄養を取るよう心がけてください。タンパク質を取るには、これからの季節、カツオがおいしくて、よろしいと思います」と、進言していたのだ。
美智子さまはにっこりほほ笑んで、天野さんにこうおっしゃった。
「先生もお好きだとお話しされていたので、カツオをご用意しておきました」
天野さんは美智子さまのお心遣いに「感じ入った」という。
「ほかに注意点として『ケガに気をつけてください』と申し上げました。ケガをすると体力も落ち、生活の質も下がりますから。手術後、公務に復帰された両陛下が、腕を組む場面が増えたように感じませんか。ちょっとした階段などでも、皇后陛下は必ず、天皇陛下を支えられている。もしかしたら、僕の助言を皇后陛下がお聞き入れくださったのではないかと思います。内助の功の素晴らしさを拝見した気がしました」
来年4月30日、天皇陛下はお元気なまま、ご退位の日を迎えられるに違いない。
「200年ぶりといわれる歴史的な生前退位に、ほんのわずかでも関われたことはとても誇らしく、僕にとっては勲章のようなものです」