設定されたコースを競技車両で走行してタイムを競うジムカーナのJAF全日本選手権(全10戦)SA―Ⅱで、うるま市出身の高江淳(46)が4勝し、県勢で初めて年間チャンピオンとなった。最終戦まで4人が優勝争いを繰り広げる激戦を制した高江。「沖縄からでも全国で戦えることを、県内の車好きにも知ってもらい、盛り上げたい」と快挙を喜ぶとともに、沖縄のモータースポーツの発展にも力を注ぐ考えだ。
高江は琉球大学在学中に友人に誘われてジムカーナを始め、仲間と県内大会に参加した。当時は県内のショップ主催で名護サーキットやゆかり牧場などで大会が開催。多い時は150台以上が参加し、県内優勝者を全日本選手権に派遣していたという。しかし、バブル崩壊や会場の一時閉鎖などで下火になっていった。「いつか全国へ行きたい」と、バイト代をつぎ込んだMR―2やインテグラの車両で結果を残していたが、結婚を機にレースから遠ざかった。
その間、県内のジムカーナ大会は有志の努力でほそぼそと続いていた。高江は2006年に「中途半端でやり残した思いが強かった」と競技をおよそ7年ぶりに再開。さびた技術を走り込んで磨いた。さらに、県内大会を盛り上げようと仲間と関西・中部地方で人気の大会を視察。最盛期にあった県外大会派遣を復活させた。
自身は全日本選手権への足掛かりのため、10年から九州選手権へ参戦した。1年目で3位に食い込むと、地方8地域のトップが集まるJAFカップに出場。後輪駆動のマツダRX―7勢が優勢の中で、前輪駆動のインテグラで6位入賞を果たした。「全国で通用できる」感触をつかみ、12年から全日本選手権SA―Ⅱに挑んだ。
しかし、1年目は惨敗。「調子に乗っていた気持ちを折られた」。県外選手はショップのサポートを受けて出場するが、高江はメカニックも兼ねて孤軍奮闘だった。レースは3~9月の間に全国各地で開催される。大会終了後はすぐに後部座席にタイヤと荷物を詰め込み、次の開催県まで数百キロを移動する必要があった。大会前は格安航空券の空路で現地入りし、リクライニングできない競技車両で寝泊まりした。「ぼろ負け後の移動はつらくて。時々、何をやっているんだろう、と自問する地獄の旅でもあった」
それでも踏ん張り続けた13年の最終レースで初めて4位に入賞した。「これでまた勘違いしたんだよね」。2度目の「行ける」勘を信じて、費用を投じて四国と静岡の有名ショップで車両の剛性アップとエンジン、足回りのフルメンテナンスを施した。これが分岐点となった。
「カーブやターンでボディーがよれずにタイヤが地面に食らいついた。立ち上がりも速くなった」。1000分の1秒を争う競技では絶大な効果となり、14年に念願の初勝利を挙げて6位。15年は6位、16年には3位に浮上して、17年は再び1勝を挙げて3位。スポンサーはタイヤ、ボディー、駆動・制御系、オイルなど各ジャンルに広がり「成績を残したおかげで多くの支援を受けとても助かった」という。その勢いで18年は4勝を挙げて県勢初の頂点に立った。
全国進出の夢を抱いて二十数年。苦労を重ねて実現した夢に「県内外の人々との交流と協力、職場の理解もあってここまで来られた」と振り返る。11月2日には、サーキット場整備を公約に掲げる桑江朝千夫沖縄市長を訪ね、報告するという。
手探りで道を切り開き、離島県の苦労を味わった分「競技人口を増やすとともに、本気で上を目指すドライバーにはみなで協力して後押ししたい。自分も県外のパイプ役となり支援していきたいと思う」と県内の競技発展も切望している。
(嘉陽拓也)