沖縄県那覇市西の三重城から北西約400メートルの海底(水深約20メートル)に全長約80メートル・幅約15メートルの沈没船があることが26日までに、第11管区海上保安本部への取材で分かった。船名や沈没時期、素材は不明。船体のほとんどは泥で埋まっていて、船首がわずかに確認できる状態だ。考古学の専門家は船の状況から「沖縄戦か戦後の段階の鉄鋼船ではないか」と推測。県内の海底戦跡を独自に調査し、10年以上前にこの沈没船を確認したダイバーは「戦中に撃沈された特設砲艦『長白山丸(ちょうはくさんまる)』ではないか」と指摘するが、現段階ではその正体は謎のままだ。
11管によると、測量船の真下を探査する技術しかなかった1980年に製作された海図には、海底に異物があることが記載されていた。
2012年10月、海底の広範囲を調べられる探査機を搭載した測量船「おきしお」による調査で沈没船であることを特定した。現在の海図には沈没船として記載されている。
琉球大の池田榮史教授(考古学)は、沈没船は明治時代から世界の戦艦の主流となった鉄鋼船の可能性が高いと指摘。「全長80メートルの船は木造で建造することはかなり難しい。木造船であれば、フナクイムシに食われてしまい船体はほとんど残らない」と説明した。
嘉手納町のダイビング専門店店主の杉浦武さん(53)は、10年以上前に那覇港に潜って沈没船を確認した。「海底の砂地から外壁のようなものが2~3メートル立ち上がっていた。海保のデータや文献を調べた結果、戦中に撃沈された『長白山丸』ではないかと思う」と推測する。
長白山丸は船会社「朝鮮郵船」が建造し、1928年に進水した貨客船。旧海軍が徴用して砲台を取り付けた上、機雷を敷設する特設砲艦として運用された。45年3月1日の空襲時、米軍の攻撃を受け那覇港で沈没したとされる。
那覇港湾・空港整備事務所によると、沈没船は那覇市の「うみそらトンネル」建設地の海底で見つかったが、工事に支障があり、移動させた。三重城から北西400メートルの位置に移されたとみられるが、船名や元の位置などは不明という。
杉浦さんは「今も沖縄の海中には不発弾を含めて多くの戦跡がある。戦争の語り部が少なくなる中、戦跡の重要性は増している。工事で移動させる前に沈没船の詳しい調査をするべきだった」と強調した。
(梅田正覚)