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ももちゃんこと、料亭當田屋(とうでや)の若女将・栗田もも乃さんは、96年生まれの24歳。家族経営している當田屋は、江戸末期から明治初期に創業し、ももちゃんで4代目。小学校のときから、将来の夢は「女将さん」と書いていた。しかし彼女が若女将としてお店に立つまでには、様々な波乱があった。

 

中学を卒業し、5年制の高専の電子情報工学科へ進学したももちゃん。3年生になる直前、鯖江市役所が、女子高生がまちづくりに参加する「鯖江市役所JK課」のメンバー募集をしていることを知った。かねてより、料亭を支えてくれた地域が、小学校、中学校へと進級するごとに、寂しくなることを危惧していた。

 

「保育園や小学校のときは、近所の商店街にたくさん友達がいたのに、次々にお店をたたんで、そのまま別の場所に引っ越してしまうんですね。1年でいちばん好きだった秋祭りも、子供の数が減り、年々、規模が縮小される。町内の高齢化が進んでいったんです」

 

ももちゃんは“私たち若い世代が暮らしやすくなければ、ますます地域の活気が失われてしまう”と危機感を持ち、JK課に応募したのだった。

 

じつはJK課が立ち上がった当初から、市役所には「JKという言葉には性的な意味合いを感じる」「女子高生に何ができるんだ」という誹謗中傷が寄せられていたのだ。こうした背景もあり、JK課発足メンバーのなかには、学校や親の反対によってやめてしまった仲間もいたという。波乱の船出ではあったが、逆に結束力が増した初代メンバー13人は、記者会見に臨んだ。

 

「中傷に落ち込むどころか、『NEWS ZERO』(日本テレビ系)でも取り上げられて、学校の友達から『ももちゃんたちのこと、嵐の(櫻井)翔くんがしゃべっているよ』とか言われたりして、喜んでいました」

 

地域の活性化に一役も二役も担ったJK課の仕事ぶりは次第に認められ、ふるさとづくり大賞においては、総務大臣賞を受賞(15年度)。16年度の高校の現代社会の副読本の表紙、裏表紙で活動内容や写真が掲載された。しかし17年7月、母で女将の佳子さんのがんが判明する。

 

佳子さんの病状は、一進一退。ときには、ももちゃんに弱音を吐くこともあった。

 

「痛い。みんな頑張りやって言うけど、これ以上、何を頑張ればいいのかわからん」

 

そんな母を勇気づける何よりの薬は「早く退院して、女将と若女将で、一緒に料亭を切り盛りしよう」という言葉だった。

 

18年8月、「母が死ぬなんて信じられなかった。絶対によくなる」と思い込んでいたが、看護師に「この2〜3日」と告げられた。病室に、最後のお別れに親族が詰めかけたとき、佳子さんはももちゃんと2人になりたいと言った。ももちゃんは「絶対に気持ちやから、あきらめたらあかんよ」と必死に励ますと、佳子さんはももちゃんの目を見て「わかとるよ」と、やさしく答えてくれた。でも、佳子さんは死を覚悟していたようだ。伸彦さんとは「あんたがしっかりせなあかん」「わかってる。もも乃のことはまかせろ」とやりとりしていた。

 

娘の女将としての成長を祈りつつ、佳子さんは、18年8月に亡くなった。いつもニコニコ顔のももちゃんも、このときのことを思い出すと、涙が浮かんでくる。

 

「亡くなっても、いつまでもあたたかい母の手を握って、すごく泣きました。でも、逆に、やらなあかんこともめちゃくちゃあった。私だけ悲しんでいるわけにはいかなかった」

 

祖父、父と共に、料亭でのひとときを楽しみにしているお客さんを迎えなければならないのだ。

 

「母娘で料亭を切り盛りする夢は実現できませんでしたが、母の着物でお店に出ると、いつも見守られていると感じます。母には到底及ばないですが、勉強して、當田屋の看板を守っていきます」

 

コロナ禍でも、くじけることはない。

 

「感染対策をしています。部屋はすべて個室で、2名さまでも利用できるので、座席の距離が広くとれます。自動検温機、手を差し出すと消毒液が出る機械なども導入。さらに三味線やお琴をお客さまに楽しんでいただくために、もっと稽古をして上達したいです。それにSNSを利用して料亭のことを知ってもらうなど、私ならではの女将の仕事も広げていきます」

 

「女性自身」2020年12月15日号 掲載

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