「このスタジオで、一人籠って曲や詞を作ることもあります」
東京・恵比寿駅に近い地下の音楽スタジオでそう話した女性は、作詞作曲家の岡嶋かな多さん(38)。手がけたアーティストは安室奈美恵やSnow ManからBTSまでと幅広く、オリコン1位は通算120回以上。売れっ子の彼女だが、そのプロフィールは「異色」と言えるかもしれない。中学卒業後、高校には行かず音楽業界に飛び込んだ。1月に出版されたばかりの著書『夢の叶え方はひとつじゃない』(PHP研究所)の副題にも「私は、中卒作詞作曲家」とある。
当時の夢は、自身が表舞台に立つシンガー・ソングライター。現在の「裏方」の仕事には葛藤を抱いていたと、本人も打ち明けた。そして今、彼女はこう言い切る。
「これが、私の天職です!」
その思いに至るまでの、物語にあふれた道のりを語ってもらった。
■苦悩を抱えきれないときはワーッと泣いて曲を作って歌って、弱い自分を成仏させた
84年(昭和59年)7月7日、青森県黒石市で生まれた岡嶋さん。
「父は製造業のエンジニアで、母は専業主婦、4つ年下の弟がいます。3歳のとき、父親の仕事の関係でアメリカへ行きました。おてんばでしたね。バービー人形もおままごともありましたが、私は家の裏にある川でザリガニを捕ってるほうが好き。『女の子らしく』と言われるのがイヤで、スカートもはきたくなかった」
通った現地の小学校には、さまざまな国籍の生徒がいた。
「肌の色が違うのが当たり前。この社会では、努力と強い気持ちが大切だとアメリカで学びました」
8歳で帰国して、都内で暮らし始めた途端に、ある違和感に襲われたという。
「町の至る所にブロック塀があって、圧迫感を覚えたんです。学校も、正直、窮屈でしたね。音楽の時間にリコーダーを吹くときも、なんで、みんなそろえて同じように吹かなきゃならないの、と」
その音楽も、「けっして得意でも好きでもなかった」と言う。
「音楽の楽しさを知るのは、小5のとき。担任が音楽の女性教師で、クラスの生徒一人一人にオリジナルソングを作ってくれたんです。『曲って自由に作れるんだ』と目覚めたきっかけでした」
次の気づきは、中1の1学期終わりごろ。
「期末試験明けに友人とカラオケへ行って、ラストに私が大好きだったミスチルの『Tomorrow Never Knows』を歌ったんです。そしたら友達が口々に『かな多、うまくない?』と言ってくれ、涙ぐんでるコもいて。あっ、私の歌は人を楽しませることができるのかな、って」
一方では、活発さも健在。バドミントン部では部長もつとめ、都大会へ出場したことも。初めて曲を作ったのは、中3だった。
「まず図書館で『指3本ですぐピアノが弾ける』という教則本を借りて自己流で始め、その後、父に初めておねだりして録音機能のついたキーボードを買いました。作った曲をカセットテープに吹き込んで、友達にプレゼントしたり。テーマは愛と受験でした(笑)」
音楽で少しずつ変わっていく自分に気づいて、ハッとする。
「10代の私は、自分に未来なんてないと思っていました」
それから彼女は、今の自分を知ってもらうためにもと、アメリカ時代のつらい体験を話してくれた。
「ある大人から、卑劣な行為を受けていました。誰にも打ち明けられず、帰国後も自分はこの世界の汚物で、早く消えてしまうべきだと思い続けてました」
音楽との出合いを、彼女は「成仏」という言葉で表現した。
「深い苦悩や葛藤を抱えきれないときはワーッと泣いて、詞を書いて、曲を作って、歌って。そうやって弱い自分を成仏させていった。ずっと生きる価値を感じられなかった私にとって、唯一の希望をくれたのが音楽でした」
そして15歳にして、思うだけでなく行動するところが、彼女らしさなのだろう。
「音楽の道へ進もうと決めているのに、なんで高校へ行かなきゃいけないの」
相談した父親は、
「わかった。ただし、やるなら勝ち戦しかするなよ」
と、背中を押してくれた。こうして中学を出て、自ら新聞広告で見つけた音楽専門スクールへ。
「目標は、17歳で武道館!」
しかし、思い描いていたようにスカウトされてデビューといった出来事は起こる気配もなく、新たな苦悩に満ちた日々が始まった。